主日の説教   1992,4,12

主の受難(枝の主日)(Lk 23:1-49)

 

今日、全世界の教会で、主のエルサレム入城が記念されます。イエス様はみなの先頭に立って進み、エルサレムに上って行かれます(19:28)。私たちもイエス様と歩みを同じくして、カルワリオの丘をを目指して進みましょう。

 

ルカは、福音書を書くにあたって、イエス様が旅をしておられる場面をいたるところに盛り込んでいます。また、イエス様の生涯を、エルサレムへの旅という捉え方で描き、それを柱として組み立てています。およばずながら私も、司祭として祭壇に立つまで、一つの旅をしてまいりました。

 

私は、振り返って、これまでの歩みにどのような意味があったのだろうか、そう考えずにはいられません。やんちゃで目立ちたがり屋だった私を、イエス様はどのように使おうとされ、そのためにどのようにつくりかえてくださったのかは、興味深いことがらです。目立ちたがり屋だったという一つの例を紹介しましょう。

長崎の小神学校に入学するために、私は通学先となる中学校の入学試験を受けに行きました。世の中に入学試験があることさえ知らなかった私は、わけも分からずその試験を受けたように思います。受験番号は67番でした。

合格発表を見に行くために、母に連れ添われて行きますと、大きな用紙に合格者の名前が載っています。「67番、中田輝次」。確かに私の名前でした。ところが母は、それを見てこう言いました。「なーんね。67番ね」。母は成績順と思ったのでしょうか。私はそれを聞いてすかさず母に反論しました。「かあちゃん、これは受験番号やかね。成績順なら、おいがいちばん前におるとたい」。

 

いま振り返るときに、神様が目立ちたがり屋の私を使おうとされたのは、私を使って神様が存分に目立つように、神様が前面に出るように、そのための道具を求めておられたのではないか、そう思うようになりました。目的地にたどり着き、これまでの歩みを振り返って、初めてそのことに気付きました。

 

イエス様の生涯を振り返るためにも、実はこれと同じ見方をすると効果的です。生涯のあのわざこのわざは、目的地であるエルサレムという場所をよく理解し、そこに立ち、振り返って眺めるのでなければ、その本当の意味をつかむことができません。では、エルサレムそのものは、どのように描かれているでしょうか。

エルサレムは、人間的にみれば華やかさとは無縁な、どちらかといえば「むごい出来事が待ち受けている場所」といった感があります。旧約にさかのぼれば、神の民に遣わされた預言者がその民から拒まれ(13:34)、彼らが壮絶な最後を遂げた場所(13:33)、そしてまた、イエス様ご自身がご自分の民から拒まれて、受難と死に赴いた場所として(23:1-49)描かれます。このような場所に、イエス様は決然と(9:51)、人々の先に立って、上って行かれるのです(19:28)。

ところで、イエス様のこれまでの行動を、すべてエルサレムでの出来事に基づいて理解すべきなのであれば、次のような疑問が湧いてくるでしょう。「人々が目の当たりにしたさまざまの奇跡、恵み深い言葉は、あのようなむごい死のためにあったのだろうか。エルサレムでのご受難とご死去を通して、わたしたちはイエス様の生涯にわたるわざを理解できるだろうか」と。

 

教会は、私たちのこのような自然な疑問に、典礼の流れを通して何かを教えようとします。イエス様のあのような最期は、私たちが神の愛を知るために必要なことであった、イエス様がなさった数々の奇跡の背景を知るために、どうしても必要なことであった、と教えるのです。実際に、典礼はどのように私たちの心を準備しているのでしょうか。

先先週、私たちは放蕩息子のたとえ話を聞き、先週はイエス様ご自身、姦通の女性をお赦しになりました。イエス様は、神の慈しみ、赦しを示すために、まずたとえをもってお語りになり、実際の体験に導いてさらにそれを身近なものとしてくださいました。さらに今週は、その愛深い神が、ついにはご自分を与えることによって私たちに愛のすべてを示そうとされたのです。人が回心し、神に立ち帰るために、神が自分のために何も残さない方であることが、今日明らかになったと言えないでしょうか。

 

神の愛の集大成が、エルサレムでの受難にあることが分かった今、私たちも、イエス様のエルサレム入城のお供をすることが求められます。それは、華やかな奇跡に踊らされ、地上の王を期待して歓喜の声をあげた当時の人々のようにではなく、すべてを与え尽くそうとしておられる神の愛にあずかるための入城です。それは同時に、私たちの罪を認め、赦しを得るための道のりであり、これからはキリストに向きなおって生活を整えようとの決意を新たにする旅でもあります。と言うのは、無理解のうちに歓喜の声をあげてエルサレム入りした人々さえも、最期には胸を打ちながら帰って行ったからです(23:48)。

 

イエス様のエルサレム入城にあわせて、私たちも共に入城いたしましょう。イエス様の入城に私たちがついて行かなければ、本当のイエス様の姿を理解できないからです。逃げることなく、エルサレム道中をお供しなければ、イエス様の生涯のすべてのわざが、最終的に何を示していたのか、悟れないからです。

共に入城することで、私たちはこれまでの罪な生活、神の望みを無視し、神に背を向けていた生活が暴かれるかも知れません。けれども最期までイエス様の十字架への道のりを共にした者だけが、赦しと平安を得、胸を打ちながら帰って行きました。

聖週間を通して、主の過越しに心を合わせ、一週間をイエス様の神秘にあわせて時を過ごしましょう。カルワリオへの道を、聖週間の典礼にあずかって共に歩むとき、私たちは主の復活をより身近に感じ、その恵みを十分に味わうことでしょう。そのような恵みの一週間になるよう、続けて祈ってまいりましょう。