主日の説教 1991,03,24

受難の主日(枝の主日)

今日わたしたちは、二つの福音書の朗読を通して、イエズス様のエルサレム入城と、主のご受難とご死去の場面に与っています。みなさんの手元にある大小さまざまの枝は、当時の民衆と共に、主のエルサレム入城を喜び迎えたしるしです。 ところで、今お迎えしたイエズス様とは、いったいどんな方なのでしょうか。また、そのイエズス様を、どんな心でお迎えしたのでしょうか。今日はこの二つの点について、すなわちエルサレムに向かわれるイエズス様がどんな方で、わたしたちはこの方をどんな心でお迎えするのかについて、しばらく黙想することにいたしましょう。

どこから、このイエズス様の姿を描き出せばよいのでしょうか。それはたった今朗読された主の受難の部分に示されています。どんな方でしょうか。一言で言うなら、「謙遜と従順によって救いの業を全うされる方」です。福音の前の詠唱で、わたしたちは次のように歌いました。「キリストは人間の姿で現れ、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、自分を低くして従うものとなった。」

謙遜と従順。これは、わたしたちが枝を持って喜び迎えたイエズス様の、大きな特徴です。実際イエズス様の生涯のすべてが、謙遜と従順に織りなされていました。そして死に至るまでの謙遜と従順によって、傲慢と不従順のために滅びの道を選んだ人類を救おうとされたのです。

どのようにして、イエズス様は、謙遜と従順を実行されたのでしょうか。それは、身に覚えのない非難やあざけりを、静かに耐え忍ぶことによってでした。ふりかかる災難に力でもって向かうのではなく、より深い剛毅の徳をもって、これを耐え忍ばれ、謙遜の模範をわたしたちに示してくださったのでした。

ところで、日本人にとって、謙遜の徳は、あるようでない、身についているようで身についていない徳だと言われます。言葉は謙遜なようで、心のなかでは傲慢と虚栄に満たされているということもしばしばです。

よく引き合いに出される話ですが、人は相手に喜んでもらうために、「つまらないものですが」「なにもありませんが」などと言ったりします。もし、その言葉を逆手に取って、「つまらないものなら、いらないよ」「なにもないのなら、おれは帰る」などと言えば、当の本人は逆上するに違いありません。

キリスト者の謙遜は、このようなものであってはなりません。イエズス様が勧める謙遜は、褒められるための隠れ蓑ではありません。まことの謙遜とは、神様と人々の前に自分をさらけ出して、自分のよい点と悪い点を正直に認める態度です。謙遜な人は、神様に自分を委ねきっていますので、他人の評価に心を奪われず、不当な中傷や非難をあびても、これを冷静に受け止めることができます。イエズス様が歩まれた謙遜の道が、まさにこのような道だったのです。

イエズス様は、この謙遜の道を、御父への従順のうちに歩まれました。この従順を伴う謙遜のために、イエズス様は「高く上げられ、すべてにまさる名を」与えられたのです。

実生活でも、謙遜な人はすべての人に受け入れられ、その心をとらえます。それが相手への深い信頼と、相手に対する誠実さ、忠実さのあかしから出たものであれば、なおさらその人に魅了されるのではないでしょうか。謙遜そのものでおられるイエズス様が、死に至るまで御父に従順であったのは、子としての、父に対する誠実、忠実、愛のあかしだったのです。

わたしたちの身の回りにも、従順を求められる機会がしばしばあります。聖職者・修道者はその上長に、夫婦は相互に、子は親に対して、職場や学校などでも、あらゆる機会に従順を試されるかも知れません。それはもしかしたら、自分の気に入らないことだったり、あるいは理に合わないことのように思われるかも知れません。けれども、誠実さと、信頼から来る従順の行為は、神の前に値高いものなのです。

13世紀に、聖トマス・アクィナスという、有名な神学者がいました。彼には、従順にまつわるおもしろい話があります。夕食の支度をするために、修道院の若い修士が、買い出しを手伝ってくれる力持ちの修士を探していました。院長様から、「誰でも、好きな人を連れて行きなさい」と言われていましたので、ちょうどそこに居合わせた聖トマスをつかまえて、「おい、買い出しに行くからついて来い!」と言ったそうです。後に教会博士として全世界で讃えられるこの聖人は、黙って彼の後について行きます。あれこれと食料を買い集めては、まるまると太っていたこの聖人に荷物を持たせ、「おい!さっさとしろ」「お前はなんてのろまなんだ!」と、厳しい口調で命令して回ったのでした。その間も聖人はおだやかに、不平ひとつもらさずに従ったそうです。後で院長様に「誰を連れて行きましたか?」と尋ねられたとき、若い修士は大目玉をもらったそうです。

イエズス様の模範を見聞きしているわたしたちも、この聖人のように、理不尽な要求にも自分を提供できる覚悟が、必要なのではないでしょうか。

こうして、イエズス様がどのような方であるかを考え、その模範を見るときに、おのずとイエズス様をどのようにお迎えすべきかが明らかになります。すなわち、ただぼんやりとイエズス様をお迎えするのではなく、自分の中にも、謙遜と従順の心を用意して、謙遜を教えられるイエズス様をお迎えすべきです。幸いわたしたちは、主の復活までの一週間を、良き準備の日として与えられています。わたしたちはこの一週間、生活にあっては謙遜と従順の実行によって、典礼集会に参加するにあたっては主の模範を黙想し、深く心に刻みつけることによって、身体的にも霊的にも、主の勝利の復活を準備することにいたしましょう。

謙遜さを小馬鹿にする人に出会ったら、身に覚えのないことであざけりを受けたイエズス様を思い出しましょう。理不尽だと思われることを命じられたら、まったく道理に合わないむち打ちや十字架の刑を甘んじて受けられたイエズス様に倣いましょう。主の模範に倣って生きる人には、主と同じ報いを天の御父からいただくということを、決して忘れないようにしましょう。

この一週間は、わたしたちにとって、ある意味でイエズス様にとっても、大事な総決算の日々です。用意の足りなかった愚かな乙女としてではなく、目を覚まして用意している賢い信者として、身をもってあかししましょう。そのために必要な恵みを、このミサの中で祈ってまいりましょう。