主日の福音  1993,04,04

受難の主日(MT 27:11-54)

 

聖週間が始まりました。教会の暦は、この一週間に起こる出来事を一年にわたってお祝いしていくものです。言ってみれば、今週は一年の中で最も大切な一週間、頂点となる週です。わたしたちも、イエス様のみあとを慕っていくようにいたしましょう。

 

イエス様のご受難とご死去を書き記すのに、福音記者はそれぞれの思いで書き綴っているわけですが、マタイはその中で、イエス様に苦しみを与える出来事だけで、物語をまとめています。

 

おそらく、読み終わったところで、自分たちが知っている出来事が読み上げられなかったと感じておられると思います。マタイ福音書には、イエス様が婦人を慰めたり、ご自分を十字架につける者たちに赦しを願ったり、かたわらの罪人の一人のために救いを保証する場面が入っていません。マタイはこれらの出来事はつとめて物語の後ろにもっていって、キリストが多くの苦しみを受けて地上での最後をとげられたということを強調しているのです。

 

受難をテーマにした交響曲があります。マタイによる受難曲と、ヨハネによる受難曲です。わたしは音楽にははうといのですが、やはり、その道の専門家が曲を作ろうというときに、マタイの受難物語を読んだ印象と、ヨハネの受難物語を読んだ印象とは、ずいぶん違っていて、それがそれぞれの作品を生み出すことになったのではないかと思います。

 

そこで今年は、マタイの書き残した受難物語に沿って、イエス様の最後の場面にお供いたしましょう。

 

よくわたしは、登場人物の一人になりかわって、物語を考えてみてくださいと言うのですが、今日の福音では、途中で十字架を代わりに担ぐキレネのシモンと、最後の百人隊長以外はすべて、何らかの形でイエス様に苦しみを与える人物です。ですから今回は、そのうちのどれかに自分を置くことは難しいかも知れません。

 

自分は総督のように権力者ではないし、祭司や長老たちの立場でもない。かといって群集にまじったとしても、その場にいあわせたら、自分はあんなには強く言わなかっただろうと考えるでしょう。

 

けれども、苦しみの原因を考えると、私たちの中にある罪や、人間的な弱さは、それぞれイエス様の苦しみの原因になっていると言わざるを得ません。イエス様を売り渡したユダの心には悪意がありました。祭司長や長老たちは腹黒い人物でした。ペトロは、自分がかわいいために、イエス様に誓ったことを最後まで貫くことができませんでした。群集は、権力者の唆しに簡単に乗ってしまったのです。

 

わたしたちの心の中に、人に対する悪意があれば、やはりイエス様が担う十字架に通じていきます。自分の立場を守るために、嘘を言ったり他人を傷つけてもしかたがないと考える人も、イエス様を追いつめているわけです。自分を守ろうとして、まわりの人を犠牲にするとき、キリストはその人の弱さを担うために、十字架へと向かいます。やはり、どこかでわたしたちもこの受難物語の登場人物なのです。

 

今は、わたしたちには何もできないのかも知れません。隠しようのない人間の弱さを、キリストがすべて担おうとしているからです。悔い改めるけれども、また同じ過ちに陥ってしまう罪人を、キリストはあがなおうとしているからです。

 

静かに、キリストの歩みを見つめることにいたしましょう。わたしたちの力では止めることのできないこの数日の出来事を、キリストへの信頼のうちに見届けるようにいたしましょう。わたしたちがそのご苦難とご死去を見届けたお方は、また復活し、新しい命を与えてくださる方でもあります。このようなつらいかかわりでしか今はキリストと結ばれてはいませんが、キリストはそれを喜んで受け取り、わたしたちのために命を投げ出そうとしておられます。

 

何か一つなり、今日のキリストから受け取り、家路につくことができないでしょうか。わたしは、精いっぱい考えて、今日のキリストから、謙遜の徳を学ぶべきではないかと思います。自分をよく見せようとする虚栄と、神に自分を委ねない傲慢から抜け出て、謙遜とは何かをキリストに学びましょう。

 

「キリストは人間の姿で現れ、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、自分を低くして従うものとなった。」福音を準備する詠唱の中で唱えられた言葉です。謙遜とは、自分を守ることではなくて、自分に信頼せず、神に信頼する態度です。キリストは死をも厭わずに、おん父に信頼して生きる道を選ばれました。謙遜とは何か、自分に信頼しないとはどういうことか、キリストが態度をもって教えてくださいます。

 

弱さを認める人だけが、今日のキリストについていくことができます。キリストがその弱さを担ってくださったからです。キリストが弱い人間をあがなってくださるからです。このキリストの一週間に心を合わせ、謙遜について真剣に考えましょう。詠唱で唱えた最後の言葉は、謙遜によって勝ち得たキリストの栄冠についてです。「それゆえ神はキリストを高く上げて、すべてにまさる名をお与えになった。」この賛美は、謙遜を学ぼうとしているわたしたちにも向けられています。