主日の説教   1992,4,17

聖金曜日(Jn 18:1-19:42)

 

昨晩、ご自分の弟子たちにその愛の極みをお示しになったイエス様は、今日、実際にご自分のすべてを私たちのために投げ出してくださいました。福音は、キリストの死が、実際にすべての人の罪のためであったことを思い起こさせます。何人かの人物の言葉を拾ってみましょう。

 

ペトロは、ここで弟子たちの代表として登場します。もっと言えば、イエスに最期までついていくことを明言した人々の代表です。神に従うとの熱烈な意志があっても、神の恵みなしには最期までやり遂げることはできません。自分で公言したことすら、自分の力で果たせなかったペトロの、弱さ、惨めさを、イエス様は喜んで担い、十字架へと向かいます。

 

またピラトは、地上の権威をまとった人々の代表です。言い換えれば、キリストの権威を最高のものとして認めることを渋る人々の代表です。権威が神から与えられていることを理解せず、自分のとるべき態度をイエス様に聞こうとしていません。そしてずるずると借り物の権威に振り回された判断を下してしまいました。イエス様は彼の罪をも担われました。

 

多くの群集は、一部の知識階級の人々の妬みに踊らされました。人間には、正しいものを正しいと認めるすぐれた知恵が与えられているのに、それを大切なときによく利用することができませんでした。神が恵みとして与えている知恵を、正しく利用できなくなってしまったすべての人の罪も、イエス様は担われたのです。

 

十字架につけられたイエス様に、今すべての人が注目しています。日曜日の福音で、イエス様がおっしゃったように、人間は、「自分で何をしているのか分からない」のです。自分の力に頼って、かえってキリストを悲しませたペトロ。むなしい権威にしがみついて、キリストを悲しませたピラト。人の言うことに踊らされて、イエス様に悲しい思いをさせた群集。一人ひとり振り返るときに、この三つの代表のどれかに、思い当たるふしがないでしょうか。