主日の福音 1997,05,04

復活節第六主日(Jn15:9-17)

 

今日、イエス様は弟子たちに命令しました。「互いに愛し合いなさい」。ごく自然に、お互い愛し合っていると考えている毎日の生活を、もう少し詳しく見直すことにいたしましょう。

福音書の中で、イエス様が掟としてお命じになったことは、「互いに愛し合うこと」これが一つだといってよいかもしれません。イエス様はこれを、すすめとか、願いではなくて、掟として示しました。命令、掟ですから、守らなかった場合は命令に背く、掟を破るということになります。それほど重大なものだ、ということです。

イエス様の教えを考えるために、今日は二つのことを取り上げてみましょう。一つは、「友のために命を捨てること」、もう一つは「わたしがあなたがたを愛したように」ということです。

多くの方が、「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という箇所を、聞き流したり、見落としたりしているのではないでしょうか。一度読んでも、おいそれとは分かりづらい箇所です。

「捨てる」。この言葉で私たちが思いつくことは、たいていが、「いらないものを捨てる」ということです。必要なもの、役に立つものを捨てることは「もったいないこと」で、「良くないこと」だからです。

では、同じ考え方で、イエス様のお言葉を当てはめることができるでしょうか。「友のために命を捨てる。これ以上に大きな愛はない」。私は、自分の命がいらないので、捨てるのでしょうか。とんでもないことだと思います。それは許されないことです。

では、どのように考えたらよいのでしょうか。おそらく、「何もあてにしないで与える」ということだと思います。

幼い赤ん坊を抱えている家族を考えてみてください。両親、特に母親は、自分の必要を満たしてもらうために泣いている子どものために、大切な時間を割いています。疲れ果てて休んでいるときも、子どもが泣けば起きなければなりません。

もし、自分の命を守ろうとするなら、休むことのほうが大切なはずです。貴重な睡眠時間をとられることは、命を縮めることにもなります。それでも子どもの必要に答えてきました。これは紛れもなく、命を捨てるということなのです。

あるいは、年老いた両親のお世話をします。寝たきりで、決して快復の見込みのない方々に、精一杯尽くします。ここでも、私たちは知らず知らずのうちに「命を捨てる」というイエス様の教えに倣っているのです。

返ってくる当てのないところに、自分の時間と労力を注ぐこと。周りを見渡せば、きっとそのような場面がいろいろと見つかると思います。

もう一つの点、「わたしがあなたがたを愛したように」というたとえも、「互いに愛し合う」という教えを考えるために重要な箇所です。イエス様は弟子たちをこの上なく愛しておられました。その典型的な例は、「赦す」ということで表されます。

ご自分のみ教えをなかなか理解しない弟子たち、誰がいちばん偉いだろうかと言って、名誉のことばかり考える弟子たち。そんな飲み込みの悪い弟子たちに、一つひとつていねいに教えていくために、どれほどイエス様は忍耐し、辛抱されたことでしょう。弟子たちの弱さを赦すのでなければ、できない仕事でした。

一度だけ、弟子の一人に「友よ」と呼びかけたことがあります。ふつう「友」というと、親しい間柄の中で使われるものですが、イエス様はこの言葉を、イスカリオテのユダに、それも、イエス様を逮捕しようとしているその場面で使われたのです。「友よ、しようとしていることをするがよい」(Mt26:50)。

ご自分が選んだにもかかわらず、裏切ろうとしているユダを、イエス様は心から赦して、ほかのどの弟子にも使わなかった「友よ」という呼びかけをなさるのです。イエス様にとって、愛するということは、赦すことの繰り返しだったのではないでしょうか。「わたしがあなたがたを愛したように」と言われたとき、弟子たちはこれまでさんざん赦していただいたことを考えたのではないでしょうか。

「命を捨てる」ことと「イエス様がなさったように愛すること」。この二つは、イエス様の十字架上でひとつになります。イエス様は愛の掟を弟子たちに、またすべての人に残すために、十字架上で命を捨て、罪の赦しを願い求めました。真実の愛は、時として返ってくる当てのないところにあるのです。まことの愛は、「赦し」ということと密接につながっているのです。

もう一度、互いに愛し合っている相手のことを考えてみましょう。向き合っているので大丈夫、というのではなく、ある時命を捨てるつもりがあるか、赦してあげる気持ちがあるか、もう一度考えてみましょう。互いに愛し合うことは、すすめでもお願いでもなく、イエス様のはっきりとした命令なのです。