「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(15:5)。今日は、イエス様が常に与えようとしておられる「豊かさ」について考えてみたいと思います。
「豊かさ」について私たちは、日頃から二通りの使い方をしていると思います。「豊かな暮らし」というふうに、心と体の両面で満たされているという場合と、「ものがあまりにも豊かだ」という、いきすぎた面での使い方です。当然、ふさわしい「豊かさ」は、満たされているという場合を指しています。
ここでイエス様は、「つながっていなさい」という呼びかけを通して、何度も「豊かな暮らし」の土台・基礎について触れてくださいます。私たちが満たされて、本当に潤いのある暮らしをするためには、イエス様とつながっていることがどうしても必要なのです。
先週の日曜日、八時のミサで、子どもたちに羊と羊飼いのたとえを話しまして、次のようなことを言いました。「お父さんお母さんは、みんなの羊飼いなんですよ。だから、おうちに帰ったら、こう尋ねてください。『お父さん、お父さんはわたしの羊飼いですか、雇い人ですか。わたしのことを守ってくれますか、守ってくれませんか』」。
すぐに、その反応は返ってきました。たぶん、親子で八時のミサに与っていたのでしょう。ひとりの子どもが正直に父親に聞いたのだそうです。そうしたら、そのお父さんはこう答えました。「お父さんはね、雇い人よ」。
子どもがしょんぼりしたかどうか、そこまではわたしも知りませんが、まあこのお父さんも面白い方だなぁと思いました。本気で雇い人だとは言っていないでしょうが、やはり家族で一緒に考える機会になったのだろうと思います。イエス様のたとえ話を、自分たちの家族に具体的に当てはめることがなければ、こんな冗談混じりの話も出てこなかったでしょう。
か弱い命を、両親が命がけで守っているかどうかを、家族が一緒になって考える。ふだんの生活ではそう頻繁にあることではありません。なのに、イエス様の教えに自分たちの生活を当てはめたとき、いつでもこのような豊かさにあずかれるのです。それは、親子の絆に限らず、夫婦の絆、子どもたち、社会生活、善悪の判断など、あらゆる場面に豊かさを与えてくれるのです。
イエス様は今日、ぶどうの木とその枝というたとえで、ご自分が与えようとする豊かさを教えてくださるのですが、わたしが常々考えていることを紹介して、今日のたとえを考えるヒントにしてください。
イエス様のたとえの中で、私たちは枝、イエス様は幹、つながっているなら豊かに実を結ぶというのがたとえの中心だと思いますが、それを何の気なしに聞き流していることはないでしょうか。実をつける植物一般に共通していることですが、果実は、太い幹にはなりません。いちばんか細い枝に、それもたわわに実をつけます。この点を、本当にしっかり受け止めてほしいのです。
イエス様と私たちでは、御父に対する信頼も、人を愛する力も、善悪を判断する知恵も、とうてい比較になりません。イエス様は遙かに高いところでこれらのものを持っており、私たちの力はわずかです。なのに、ご自分は与えることに徹して、私たちか弱いものをお使いになるのです。か弱い私たちを使って、この家庭に、この社会に、豊かな実をつけようとするのです。
考えてみてください。私たちはいつも弱さの中で生きています。どんなに強がっても、人に対して、自分に対して犯す過ちを避けては通れないのです。そんな、弱い私たちを、イエス様はあえて「実を結ぶ木」として使ってくださいます。
会社で与えら得た役割があります。父として、母としての役割があります。司祭・修道者は、神を礼拝し、神と民との出会いの務めに奉仕しています。ですがいずれも、謙虚に考えると、自分よりもはるかに優れた人がいるのです。不適格な自分を思うとき、「私よりも、よっぽどふさわしい人がいるのではないか」と感じるのです。
どれほど、イエス様は豊かなのでしょう。こんな弱くちっぽけな私たちを、実をつける枝として使ってくださいます。もしかしたらもっといい枝があるのに、あえて世話のかかる枝を使って、ご自分の豊かさを表そうとされます。ほかの人ではなく、私に、その仕事を任せてくださるのです。溢れる豊かさがなければ、どうしてこのようなことができるでしょうか。
今も、イエス様は私たちを使おうとしておられます。か細い枝であるけれども、イエス様が実を結ばせたいと期待をかけている枝なのです。私たちが実を結ぶとき、それはイエス様と御父の栄光となるのです。
一人ひとり、毎日の生活にイエス様の教えの実を結ばせましょう。いつも近づこうとしておられるイエス様に背を向けることなく、必要があれば枝の剪定をしてもらい、いつもイエス様に心を開く人になりましょう。私たちは、イエス様に導かれるとき、たわわに実をつけるすぐれた枝なのです。