主日の福音 1997,04,20

復活節第四主日(Jn10:11-18)

今日の福音の中で、「羊」に焦点を当てて考えてみたいと思います。「羊」とは、いったい何を意味しているのでしょうか、また、私たちに当てはめて、「羊」とは誰のことを意味しているのでしょうか。

「羊」といわれて、私がすぐに考えるのは、「おとなしい、やさしい動物」という印象を持ちます。ですが今日の場面では、「か弱い動物」という姿を当てはめるとよいかも知れません。狼に襲われる、一匹一匹が弱いので、群れを成して生活する。こんな姿をまず思い描いてください。

このか弱い羊たちは、羊飼いに守られて暮らします。自分たちを守り導き、養い育ててくれる羊飼い。命の責任までも引き受けてくれる羊飼いがいるからこそ、安心して生きていくことができます。普段のんびりと餌をはむことができるのは、羊飼いの見えない影響力があってのことです。

私たちの生活の中で当てはめたらどうなるでしょうか。誰かに見守られて生きているか弱い命とは、いったい誰のことでしょうか。おそらく、見当はついているでしょうが、それは子供のことです。親に見守られて、すくすくと育っていく命。私たちが目の前にしている子供たちが、福音のたとえに出てくる羊にぴったり当てはまるのだと思います。

ここでは、子供たちも肉体的な成長は取り扱いません。どうかすると見落としがちな、精神的成長について触れたいと思います。福音のたとえからもわかるのですが、羊は大きな力に支えられてはいますが、あとは自由にのびのびと生きています。危険な場所など、最低限のことだけ注意されるだけで、発見する喜び、何かを選ぶ自由は常に与えられているのです。

この点、今の子供たちは大丈夫でしょうか。発見する喜び、自分で選ぶチャンスを、十分に与えられているでしょうか。私は、多少心配しています。子供たちがミサに与るチャンス、教会学校に通うチャンスは、十分に守られているでしょうか。親たちの都合で制限されたり、最初からそのための時間が奪われていたりということはないでしょうか。大変心配しています。

羊飼いは、か弱い命の象徴である羊たちに、制限を加えたり、自由を奪ったりしませんでした。むしろ、のびのびと暮らすための環境を、いのちがけで守ってあげたのです。羊が命を豊かに受けるために、自分の命を捨てさえするのです。

どこの教会でも聞かされることですが、子供たちが教会にこなくなっているといわれます。けれども、子供たちは自分で車を運転するわけではありません。自分でバス代を稼いでいるわけでもありません。ない時間を捻出するのでもありません。これらはすべて、羊飼いがいのちがけで守ってあげなければならないのです。羊飼いである両親が、我が身を削って用意してあげなければならないのです。

おそらく、子供たちはそのことに十分気づいてはくれないでしょう。たとえ気がついて、「いつもいつも、私のために時間と労力を割いてくださって、ありがとうございます」などと言われたら、むしろ気味が悪いのではないでしょうか。

もし私の心配が当てはまっていたら、そうした懸念が的中しているとしたら。家庭には羊飼いはいないということになります。その家庭には羊飼いではなく、福音にあるとおり、ただの雇い人がいるのかもしれません。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」(v.12)のです。

同じように、本物の羊飼いでない親も、雇い人よろしく羊であるわが子の霊的成長に命を懸けず、いよいよになると逃げ出すのです。逃げるだけでなく、羊である子供たちが置き去りにされていくのを、誰か人のせいにするのです。

みなさんは、子供にとって本当の羊飼いになっているでしょうか。子供の宗教教育のために、命を張っているでしょうか。いつも逃げ腰の雇われ親に成り下がっていないでしょうか。いのちがけで、子供たちがのびのびと教会で育つ環境を守ってくださらなければ、か弱い命は社会の中に飲み込まれ、イエス様の豊かな命の囲いから外れてしまうのです。

情報の洪水と、車の洪水からは子供たちの命を守るのに、どうして無神論の攻撃には平気でいられるのでしょうか。本物の羊飼いであれば、どうしてそのような危険から守ってあげようとしないのでしょうか。それで子供たちの命を守っているつもりでしょうか。

この教会には、か弱い羊が何百といるのです。羊は、自分では決して命を守れません。信仰の命も同じです。この教会の大人一人ひとりが、それぞれの立場で本当の羊飼いとなって、羊の命を守ってあげましょう。そのための恵みを、ミサの中で祈ってまいりましょう。