主日の福音 1997,04,13

復活節第三主日(Lk24:35-48)

 

今日の福音から、イエス様が弟子たちに何を求めておられるかについて考えてみたいと思います。そこから、私たちの実生活について考えてみましょう。

復活したイエス様が、弟子たちにお会いになりました。弟子たちが顔と顔を合わせて復活したイエス様に会うのは、これが初めてでした。弟子たちは恐れおののき、「亡霊を見ているのだと思った」(v.37)とあります。私たちの言葉で言えば、「うったまげた」ということでしょう。見たことのない姿ということと、まさかという気持ちが、彼らにそのような気持ちを起こさせたのだと思います。

ところで、そんな弟子たちを見て、イエス様はどう振る舞われたのでしょうか。イエス様はそんなことにはまったくお構いなしで、どんどん弟子たちの心の中に入っていきました。「なぜうろたえているのか。どうして心に疑いを持つのか」(v.38)。容赦なく心の奥底に入ってこられるイエス様を前に、彼らはなすすべもなかったことでしょう。

こんな雰囲気の中で、イエス様は一つのことを要求なさいます。「ここに何か食べ物があるか」(v.41)。留守中何もなかったかとか、ましてや「わたしが復活するまで、抜かりなく準備をしていたか」といったことは問いませんでした。ただ、「食べ物があるか?」とだけ尋ねられたのです。

私たちはどうでしょうか。誰かにお願いするときに、自分でもできないような無理難題を、その人に押し付けたりしないでしょうか。特に仕事を引き継いだりするときに、自分の役職を降りたくない一心で、次の人を困らせたりするようなことはないでしょうか。初めて仕事を引き受ける人に、「これはしごきなのだ」とか言って、必要以上の重荷を負わせることが、私たちにはあるのです。

イエスはそのような愛の伴わないしごきを決してなさいませんでした。むしろ、弟子たちがあっと驚くような易しい仕事を頼まれたのです。「ここに、何か食べ物があるか」。

もしかしたら、弟子たちっは心の準備ができていたかもしれません。どんな難しい仕事を言い渡されても、それをこなすことができたかもしれません。けれどもイエス様は、将来を見越して、他愛もないことを求めたのです。

「将来を見据えて」というのはどういうことでしょうか。わたしはこう考えました。「これからもずっと、わたしがあなたたちに求めることは、このように易しいことなのだよ」。

たとえばイエス様が、ご自分にもできないような難しい仕事を、弟子たちにお願いするでしょうか。一介の漁師に過ぎない人々を選ばれたのに、彼らの力以上のことを求めるでしょうか。むしろ、「お安い御用です」と、喜んで応えるようなことから始めたほうが、弟子たちを安心させるし、自信をつけるのではないでしょうか。そんなねらいがあって、「食べ物はあるか」と問われたのだと思います。

このようなやり取りの中から、私たちも何かを学ぶべきです。私たちは日々、何かを求められています。会社から、家庭から、あるいは教会から、いろんなお願い事が舞い込んできます。時には、「何で俺がぁ?」とか、「無理だよ、俺には」と感じることもあるかもしれません。

ちょっと見方を変えてみてください。もしかしたらこの仕事は、その人を通して、イエス様がお願いしているのかもしれません。そうであれば、きっとイエス様は仕事をこなすための力と知恵も、いっしょに与えてくれるでしょう。イエス様に知恵を願えば、「何だ、こんな簡単な仕事だったのか」と、反対に驚くかもしれません。

どうぞ、与えられた仕事の見方を、もっとゆったりと考えてみてください。「俺には無理だ」「俺じゃなくて、あいつにさせてくれ」と言うのではなくて、「私に頼まれた仕事だから、案外簡単なことかもしれない」そんあふうに受け止めてみましょう。「俺が、俺が」という自己中心の考えから抜け出たとき、その時こそイエス様はあなたの中で存分に働いてくださるのです。