主日の説教 1991,03,31

復活の主日

主の復活、おめでとうございます。今日の典礼では、聖書の朗読、祈願、奉献文、聖歌、どれをとっても復活の神秘そのものをお祝いするものばかりです。ですから今日のこの日は、主日の中の主日、日曜日の中の日曜日ということになります。

さて、今日はヨハネによる福音がとられ、「空の墓」の出来事を通して、信仰によって主の復活を受け入れるようにと、私たちを招いています。そこで今日は、「信仰の目でものを見る」ということについて、しばらく黙想することにいたしましょう。

福音書に登場するマグダラのマリアは、墓に眠っておられるイエズス様の世話をするために、朝早く出かけたものと思われます(マルコ16:1-3)。実際に行ってみると墓の石が取りのけてあったので、なきがらも運び去られたものと思い、あわててペトロのもとへ知らせに行きます。ペトロともう一人の弟子も、それを聞いて急いで墓へ駆けつけました。

今日の箇所では、この三人が、イエズス様の葬られた墓に向かったことになっています。けれども、それぞれがそこで見たものは、ずいぶん異なるものでした。マグダラのマリアは、墓を塞いである石が取りのけてあるのを見ただけです。ペトロは墓に入りましたが、彼は亜麻布という、目に見えることだけに注意を向けています。ヨハネだけが、頭を包んでいた覆いや、亜麻布の置かれている様子から、出来事の本当の意味をつかみ取ったのでした。

ここに、人がものを見るときの、具体的な三つの例が示されています。一つは、十分に出来事を見る前から、こうではないかと自分で考える人。二つめは、出来事は見るが、その場の様子だけにしか考えを及ぼさない人。最後に、与えられたものを材料として、その中にある真の意味をとらえる人です。

こう考えると、福音に登場する三人についての見方も、前とはずっと違ったものになるのではないでしょうか。マグダラのマリアとは、いったい誰なのでしょうか、ペトロとは、誰なのでしょうか。毎日の生活を損得の勘定だけで判断するわたしこそが、マグダラのマリア、ペトロなのではないでしょうか。私たちには、毎日の生活はおろか、教会との関わりさえも、損得勘定で片づけようとする傾きがあるのです。

このような現実があっても、それ以上に、信仰の目でものを見なければならない出来事が、なんと多いことでしょう。家庭の絆、夫婦の間の信頼関係、上に立つ人との協力など、数え上げればきりがありません。口で信仰だ信仰だと言うのはやさしいですが、実際にその場で、与えられた務めやさまざまな要求を、信仰の目で見るということは、なまやさしいことではないのです。

なぜでしょうか。それは、もともと信仰が神からのものであって、信仰の物差しによるはかりかたと、人間的な物差しによるはかりかたとは、しばしば噛み合わないからです。言ってみれば、信仰の目でものを見るとは、「神様に与えられた目でものを見る」ことなのです。

こうした点では、むしろ子供の方が確実に、信仰の目でものを見るための素直さを備えているようです。卑近な例になりますが、春休み、夏休みになると、子供たちはいい遊び相手が帰ってきたとばかりに、神学生の家に来ては、あの手この手で声をかけてきます。「神学生いませんか?」「ねー、いるんでしょう」しばらくはだまって聞いているのですが、いつも遊んであげられるわけでもなく、「おらん」と自分で返事をすることがあります。

こうしたやりとりのあと、決まって次のようなかたちで落ち着きます。

「神学生のうそつき!『神学生』はうそをついたらいかんとよ」

「しょうがないなー」・・・・・・。

あとはみなさんのお察しの通りです。子供は、悪意がない限り、いつも神様の前にみずからをおいて行動し、話しています。子供たちにとって、出来事を神様と結びつけることは、難しいことでも何でもないのでしょう。この素直さを私たちはぜひ見習いたいものです。

信者として生まれ、信者として生きる私たちにとって、信仰の喜びとは何でしょうか。「あの人は熱心か」と、人に褒められることでしょうか。教会の足りない点を指摘することで有頂天になることでしょうか。むしろ、清い心がけで自分にできる奉仕を行い、報いのことをすっかり忘れるくらい寛大に生きる。これが信仰の目でものを見る人の喜び、信仰だけがその意味を教えてくれる生き方なのではないでしょうか。

今一度、福音を読み返して下さい。彼らのうちの誰が、イエズス様の復活するところを見たのでしょうか。それともヨハネは、ペトロが見落としていたものを見つけたというのでしょうか。そうではありません。ヨハネが見たのは、ペトロと同じ亜麻布でしたが、彼の場合は「見て、信じた」のです。すなわち信仰が、信仰の目でものを見る姿勢が、イエズス様の復活に気づかせたのです。

この喜ばしい復活の日を機会に、もう一度信者として、今のわたしに何が必要かを、考えることにしましょう。それは偏見を取り去ることかも知れません。こちらから、気軽に声をかけることかも知れません。いずれにしても、すべては、人間的な物差しを寛大に捨てて、信仰の物差しでものごとを判断するか否かにかかっているのです。

私たちは今日、かつてイエズス様がなされた問いかけに、ふさわしく答える必要があります。イエズス様は信仰薄い人々に次のように問いかけられました。「あなた方は何を見に、荒れ野に行ったのか」。今日ここに集まった私たちは、何を見に来たのでしょうか。説教台で脂汗をかいている助祭を見に来たのでしょうか。復活されたキリストでしょうか。

信仰の目で、すべてを見ることができるよう、そのための恵みを、このミサのなかで祈ってまいりましょう。