主日の説教   1992,5,24

復活節第六主日(Jn 14:23-29)

今日、イエス様は、ご自分の名によっておん父がお遣わしになる聖霊の働きを解き明かしておられます。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなた方にすべてのことを教え、話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。聖霊が与えられた弟子たちは、イエス様と共に生活したときに見聞きした、一つ一つのことが分かるようになりました。私たちも、聖霊のこのような力強い導きに与れるよう、しばらく黙想しましょう。

今日の福音によれば、聖霊の大きな特徴は、イエス様がかつて語り、行われたことを理解させてくださるということです。聖霊を正しく理解することは、聖霊の時代といわれる現代にあって、とても大切なことです。イエス様の言葉と行いを理解させる聖霊の働きを、まずは福音に求めてみましょう。

ヨハネ福音書の中に、弟子たちが聖霊に照らされて、ようやく当時のイエス様の言葉を理解したという記録が、二つの箇所で残されています。2章22節に次のようにあります。「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」。また12章16節にも、「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した」とあります。あの選ばれた弟子さえも、聖霊の照らしがなければ、イエス様をよく理解できなかったのです。

このように聖霊は、私たち人間の内で働いて、イエス様の言葉と行いの真の意味を理解させてくださいます。イエス様について理解させるということであって、決してイエス様とかけ離れたことを勧めたり、イエス様さえも理解できない不思議を語ったりするものではありません。ですから私たちが聖霊に祈り求めたり、聖霊が私たちに働きかけるとき、イエス様が言いもしないことを語るということはひどくおかしなことだということになります。聖霊はむしろ、私たちの生活の中に深くかかわって、イエス様が私たちに何を求めているか、実社会にどのような福音の芽があるのかを教えてくださるのです。

わたしは、ある出来事の意味を、その時にはすぐに理解できないで、あとになって少しずつ分かるということがしばしばあります。それは多くの場合、心配事や、乗り越えられそうにない大きな困難であったりします。「どうしてわたしにこんな大きな困難がやってくるのだろうか」。「なぜ」という問に答えが与えられないと、だれしも不安や焦り、いらだちを覚えるものですが、ひとたびそこから解放されたときに、どんな意味があったのか、何を教えようとしていたのかを理解させるのは、聖霊のおかげだと強く感じます。聖霊の照らしがなければ、その時わたしにどんなことをイエス様が期待しておられたのか、知ることはできないからです(泣き別れ)。

一つの体験があります。祖母の話しですが、わたしは祖母に起きた出来事を通して、イエス様の、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」というみ言葉をはっきり理解しました。皆さんと分かち合いたいと思います。

まだわたしが小神学生だったとき、祖母はよくわたしを家に呼んで、いろいろと神学校のことを話させていました。早くから足が弱くなっていて、家の外に出ることも滅多にない方でした。祖母は繰り言のように「早く神父様になりなさいね。それがばあちゃんのたった一つの楽しみよ。あんたがおるけん、ばあちゃんは元気でいられるとよ」と言っておりました。

後にわたしが反抗期に入り、しばらく祖母の家からも足が遠のいていましたが、大神学校に入って、久しぶりに家を訪ねてみました。家に行ってみると、祖母は別の部屋にいるということです。叔父はこう言いました。「ばあちゃんも最近は物覚えが悪くなってね。君のことも、どうかな」。「まさか?」「いや、本当さ」。信じられない、という感じでしたが、本当に言われたとおりでした。

「ばあちゃん、輝次よ。」「どうもわざわざお見舞いくださってありがとうございます」。「ばあちゃん、おれたいね。輝明の息子。神学校に行ってる輝次。」「神学校に行ってるとですか。感心ですね。わたしにも神学校に行っている孫がおります。仲良くしてくださいね」。何を言っても通じません。祖母の記憶は途切れていて、彼女が覚えていることだけしか理解できないのです。いったん部屋を出ましたが、気落ちしているわたしをよそに、祖母は叔母に次のように聞いています。「知らん人が訪ねてくれたとよ。あの人は誰やったとね」。

それから二年ほどして、祖母は天国への旅に召されましたが、わたしには祖母が担った十字架が理解できませんでした。「どうしてあんなに重い十字架をイエス様は担わせるのだろう。あんまりじゃないか」そう思って、悲しくなったのですが、叔父の挨拶の言葉を聞いて、はじめてみ言葉に心を開く気になりました。次のような言葉です。「母は、最後まで自分の十字架を立派に担い通しました」。祖母がいま味わっている幸福を考えてやれば、確かに祖母の担えない軛ではなかったのでしょう。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」というみ言葉が、はじめてわたしにも分かったような気がしました。

「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなた方にすべてのことを教え、話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。聖霊が私たちの内に働き、私たちの心をイエス様に開かせるのでなければ、たとえばわたしは、祖母のことを理解できないままでいたでしょう。同じことは、皆さまの体験にも一つ二つはあることだと思います。聖霊が、時間をかけてあなたの心を開き、イエスのみ言葉、その想い、望みを理解させてくださった。聖霊を直接は感じなくても、そこには必ず、聖霊の助け、導きがあるのです。

わたしは、聖霊が十分に働いていただけるように、心を開いているでしょうか。聖霊が、イエスの望みを解きあかしてくださることを、心から受け入れているでしょうか。信仰に迷いやかげりが生じたとき、よそに解決の糸口を求めないで、聖霊の照らし、導きを大切にすることができるよう、祈ってまいりましょう。