主日の説教   1992,5,17
復活節第五主日(Jn 13:31-33a,34-35)
 今日、イエス様は私たちに、「新しい掟」をお授けになります。「互いに愛し合いなさい」。この掟、どうして新しいと言われるのか考えてみましょう。また、新しい掟を前にして、私たちはどのように振る舞わなければならないのかについてもしばらく考えてみましょう。
 イエス様は、ユダが立ち去った後の11人の弟子たちに、この「愛の掟」を命じました。選ばれた12人の中でも、最後までイエスに付き従うことを誓った弟子たちです(Jn 6:68-69)。それはまた、今日の箇所13章のはじめでイエスによって示された限りない愛に応える用意のできていた者たちでした(Jn 13:1)。彼らは、どんな命令をイエス様に命じられても、喜んで答える覚悟ができていたことでしょう。彼らの心意気を察して、イエス様は最後の命令を託されたわけです。
 イエス様はこの「互いに愛し合いなさい」という掟を、「新しい掟」として紹介されました。「愛を示さなければならない」というのは、取り立てて新しいことでもないのですが、キリストはそこに、これまでとは違った新しい実りがあることを暗示されました。
 イエス様はご自分の命じる新しい掟の実りを、次のように言われました。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(v.35)。私たちが互いに愛の業を行うとき、人々はそれを見て、私たちがどこからそのような力を汲み取っているかを知るようになると言うのです。こんなに幸せな生き方ができるのは、何かのわけがあるに違いない、そう悟ると言うのです。
 お互いに愛を示し、はぐくんでいくいちばん身近な例は、夫婦の間柄ではないかと思います。二人は、イエス様の声に心を開き、愛するとはどういうことかを、誠実に考え、確かめようとしてきたからです。イエス様が命じておられる愛の姿とは、どのようなものなのでしょうか。
 わたしが神学生の時、ある年の黙想会を指導してくださった神父様が、お話しの中で一つの質問をされました。「お互いがお互いを愛するためにいちばん必要なことは何だろうか」。質問したあと、神学生の答えを求めるでもなく、結婚の準備の要理にきていた人の例を引いて、みずから答えてくださいました。
 「結婚生活にいちばん大切なことは?」神父様が尋ねます。一方は、甘い声で次のように答えます。「やっぱり相手にやさしくして、性格を理解して、明るく振る舞うことだと思います」。同じ質問をもう一方にしました。すると間髪を入れずに次のように答えました。「やっぱ、信仰!」神父様はその時、心の中で「うん、いい答えだ」と思ったそうです。
 神父様はこのたとえを話し終えて、次のようにまとめてくださいました。「人を心から愛するためには、情に頼った愛だけでは足りません。信仰に土台がなければ、その愛は最後まで続かない、これがわたしの結論です。
 考えてもみなさい。人を愛し続けるために、その人のよい面だけに頼っていられると思いますか。もしその人の長所を見ることができなくなったら、それで終わりになりはしませんか。裏切られたら、もう愛する理由なんてなくなるのではないでしょうか。これらはどれも、当てにならないものなのです。
 ところが、ところがですよ。世の中には何回裏切られても、それでも赦して愛し続ける夫婦がいます。何度警察のお世話になっても、子供を受け入れる親がいるわけですよ。人間的にみれば、『何でうちの息子はこんなにできの悪かとやろか』『何でわたしはあの人と一緒になったとやろか』と訝ってもおかしくないところで、愛し合う家庭、夫婦がいらっしゃる。本当に、信仰がなければ、とっくに崩れ去っているケースですよ。さっきの夫婦が、『やっぱ、信仰』と答えたときに、あー、彼らの未来は明るいな、と確信しました。
 そこで、一つの教訓を与えたい。皆さん、この修養の場で、この共同生活の中で、報いをあてにしないで人を愛する訓練をしなければならない。何も当てにしないで与えることを学ばなければならない。『あいつはすかん』『あの人の言うことだったら聞いてもいい』そんな、人を選り好みにして毎日を過ごすことのないように。あなた方が本当に相手をすべきなのはキリストです。その人を通してキリストを愛しなさい。その人に仕えることで、キリストに仕えなさい。それがキリストに倣う道、キリストと共に歩く道です」。
 イエス様は、愛の掟を命じるときに、模範、但し書きを先につけてお明示になりました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。イエス様の模範とは、ご自分の命までも与え尽くすほどの愛でした。それは、ご自分のために何も残されない程の愛ということです。何かを当てにしてその人に尽くすのではなく、報いを何も当てにしない愛の業を、一人ひとりが実行するときに、「わたしがあなた方を愛したように」とおっしゃったあの言葉が、世の中で実をつけていくのです。
 何かを当てにして、そこに望みをおいて隣人愛に励む人ならいるでしょう。けれども、私たちが受けた掟、新しい掟は、「キリストが愛したように」との但し書きがついています。人からの名誉、賞賛をいっさいお求めにならず、ただ相手を生かすため、神の子の命に生きる者となるためだけにすべてを与えた愛。このイエス様に模範を仰ぐとき、「本当に人を愛するために、何が必要か」あなたなりの答えが出るでしょう。
 すすんでイエス様の残された愛の掟を実行しましょう。「あの夫婦は裏も表もないのかしら、何も当てにしないで、どうしてあんなに相手を愛せるのだろう」。愛の掟を知らない多くの人は、不思議で仕方がないでしょう。そんな、信仰に基づいて人を愛する家庭、共同体が、この地域にますます広がりますように、共に祈ってまいりましょう。