主日の福音 1993,05,08
復活節第五主日(JN 14:1-14)
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(14:6)。今日は、イエス様のこのみ言葉から、信仰者が通るべき道について考えてみたいと思います。
「道」という言葉を使った言い回しで、今でも心に残っているものがあります。「ぼくの前に道はない。ぼくの後に道はできる」。というものです。たしか小学生のときに何かの拍子に覚えて、それ以来ずっと残っている台詞です。だれが言ったものか、どこで使われた台詞か、今となっては確かめることもできませんが、当時の小学生を唸らせるには十分な言い回しでした。
あのときわたしは、この短い言葉にしびれて、何度も何度も漢字の練習帳や、算数のノートや、とにかくいろんなものにそれを書き付け、自分なりに意味を探し続けたのを覚えています。しまいには勉強部屋の壁に、張り紙をしたりして、「一体それは何ね」と、親に言われたこともあります。
今になって考えると、むかし覚えたその「道」とは、人間のこれまでの歩み、生きざまというものに通じていたように思います。人が生涯を歩み続け、その歩みを積み重ねてできた結果が、わたしの足跡、わたしの道だということでしょう。
イエス様がご自分のことを、「わたしは道、真理、命」と仰ったのも、このようなたとえを参考にすると、何かをつかむことができると思います。イエス様が歩まれた道とは、何かイエス様の前に決められた道があって、それを決められた通りに歩み通されたのではなく、むしろ、イエス様がご自分の生涯を生き抜かれた、生き抜いたその結果が、足跡、道として私たちに残されていくのです。
そのように考えると、トマスの質問が少し的を外れていたことにも気付きます。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」(14:5)。
もし、決められた道を探すとか、決まった道筋が与えられるというような考えだったら、トマスと同じような質問をしたでしょうし、あいにくその道を見いだすこともないでしょう。けれどもイエス様と行動を共にし、苦楽を分け合ったことをよく思い返すなら、イエス様の生き方が、イエス様の道を作り出していると知っただろうと思います。やはり、キリストが最初に父への道を切り開き、キリストが歩まれた後に、父への道ができるのではないでしょうか。
この社会に「道」とついたものは山ほどあります。柔道、剣道、書道、茶道、数え切れませんが、そこで道を極めることを考えると、どのような歩き方を求められているのか、気付くと思います。そこには、何か決められた道があるのではなくて、一つ一つ自分で体験し、身につけていくときに「柔」の道、「剣」の道、「書」の道という形で自分のものとなっていくわけです。
キリストが示された「道」も、やはり同じことが言えると思います。こうすればよいといった解説書はありません。準備された道のようなものはどこにもなくて、一人ひとりがキリストの生涯に起こる出来事を、自分で一つ一つ体験していかなければなりません。たとえ歩みは遅くとも、キリストを通らなければ、救いへの道はないのです。
キリストは、社会の隅に追いやられた人を友とされました。自分に反対する人の意見を、注意深く、誠実に聞こうとされました。正しいことには正しいと声を上げますし、異邦人の信仰を讃えることもあり、信じる人にはすべて、神の命を与えてくださいました。
ときとして人々の無理解に遭い、反対者に妨害され、命の危険にさらされることもありました。弟子たちも、イエスのあとにできる道を歩めない者は去って行きました。それがキリストの生き方であり、キリストの道なのです。わたしたちが歩む道も、決められた安全な道があるのではなくて、試練に遭い、闘いながら、日々の十字架を担って行く、その積み重ねが、あなたの歩む道、「キリストを通って行く」という道なのではないでしょうか。
最後に、キリストは、「道」であると同時に、「真理」「命」でもあります。この道、この生き方に、真理があり、この道を歩む人こそ、生きているわけです。神様はキリストに倣うという方法で、命に与らせることを計画されました。その上、命を育むことも、人間に委ねてくださいます。神様しか与えることのできない「命」を、神様は夫婦に委ねてくださいました。
幸い、今日は母の日です。母親のイメージは、何と言っても命を生み育てるもの、命をもたらすものです。わたしたち一人ひとりが、生命の神秘を神様から委ねてもらったことを、今日のお祝いを通して考えてみてはいかがでしょうか。
また日頃声に出したり、態度で感謝を表わしてなかったなーという子供さんや、お父さん方も、この日一日、喜ばしい一日になるように、何か態度で表すことにしましょう。
キリストの生き方を、一つずつ取り入れ、わたしの生涯をキリストの道に合わせていくこと。今日考えたことを実行に移すとき、この道が真理を示し、命をもたらすものとなりますよう、ミサの中で祈りましょう。