主日の説教   1992,5,10

復活節第四主日(Jn 10:27-30)

今日の福音でイエス様は、「わたしの羊」すなわち、「わたしの声を聞き分ける者」「わたしに従う者」を捜し求めておられます。私たちも、これまでの信仰生活の歩みを振り返り、イエス様の招きに応える道を考えてみましょう。

イエス様は、実に簡潔、明瞭な言葉でもって「わたしの羊」を描いています。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」「彼らはわたしに従う」。イエス様はさりげなくおっしゃっていますが、イエス様の望みを汲んで、期待に応えるということは、そうそう易しいことでもないようです。わたしは、イエス様の羊にふさわしい振る舞いをしていたでしょうか。

ここで、「聞き分ける」ということと、「従う」ということをもう一度反省してみる必要があります。イエス様の声を聞き分けるとは、「他のなにものにもまさってイエス様の勧めを大切にし、それを選び取る」ということです。わたしの耳に入ってくるたくさんの声の中で、イエス様の勧めを真っ先に選り分け、そこに判断の基準を置くことです。

これは、言うのは易しいですが、それを忠実に守ことはなかなかできません。「こうすれば神様はきっと喜んでくださる」そう思っているのですが、一方では「でも人はどう思うだろうか」と心配します。神様の望みがよく聞こえているのに、それと同じくらい自分の考えも捨てがたいと思っているのです。そしてこのような葛藤を持っておられる人は少なくないわけです。

ですから、「神に従う」ということをあわせて考えることは意味があります。本当にイエス様の声を聞き分ける人は、同時にイエス様に従うこともできるからです。キリストの声を聞き分け、その声の主に従うことこそ、私たちのあるべき姿なのですす。

さて、従うということには、「神に対する全面的で、絶対的な信頼」のうちに、「神が決められた道を歩む」ということが含まれています。「厳しかねー」とお考えの方がおられるかも知れませんが、言い方を変えれば、神様の望みを毎度毎度優先しているかということです。「今日くらいは」「あしたからだったら」というのではなくて、今日も明日も、神の喜ばれることを先にするということです。

神の声を聞き分け、それに従う機会は、大きな試練の中で求められることもあります。例を紹介いたします。教会で婦人会が担当している、いくつかの役を決めようとしたときのことです。

その小教区で、主任司祭の立ち会いのもと、担当者が改選されていきました。一通り選挙が終わって、一安心と思ったところで、一人のご婦人が意見を述べました。ある担当について、いま決まったその人にしてほしくないと言うのです。

詳しく話を聞くと、どうもその役には、他でもない、自分が適していると言うのです。これまで何十年も同じことをこなし、多くの経験を積んでいるから、わたししか知らないこともあるし、どう贔屓目に見てもわたしの方が仕事をこなせるのだというわけです。

「今回は選挙で決まったのですから、選挙の結果通りにいきましょう。それでダメなら、その時に考えましょう」。主任司祭は静かにそう言いました。ところがその人は猛然と反発して、ついに言い合いになり、収集がつかないくらいになってしまいました。いよいよというところで、その人は最後の切り札を出しました。「わたしがこの役をしないと、この教会ではつとまらないんですよ。ご存じないんですね、神父様」。それを聞いたとき主任司祭はきっぱりとその人の意見を退け、次のように言ったのです。

「いいですか、神様がこの教会に、いま何を望んでおられるか。それが聞き分けられないのであれば、あなたを使うわけにはいきません。神様はご自分が『この人を』と決めた方を使われるのですから。人間的に見れば、その人は確かに至らないかも知れない。能力だけ見れば、もっとすぐれた人がいるかも知れない。けれども神様は、たとえば今日のようにして選ばれた人を中心にして、この教会に恵みをもたらそうとしているのです。神様に全面的に信頼している人が選ばれるなら、教会は絶対に倒れることはありません。自分でないとこの仕事はつとまらないとおっしゃいましたが、そのような考えは根本的に間違っています。『わたし、わたし』という考えが、むしろ教会を破壊するのです」。

司祭が入れた「喝」のおかげで、場内のご婦人方はしんと静まり返りました。一人ひとりが、神父様とその人とのやりとりを自分のこととして受けとめ、わたしが役員に選ばれたのは、わたしにふさわしい理由があるからではなくて、神が今年わたしを使おうとされたからなのだと知ったのでした。ご自分の声を聞き分け、ご自身に全面的に信頼してこの役を果たすことを期待しておられるのだ。そう確信したのでした。

今の私たちにも、イエス様は同じ招きをしておられるのではないでしょうか。「わたしの声を聞き分けなさい。わたしに全面的に信頼して、従いなさい」。聞き分けの無いことをつぶやいてはいないでしょうか。神の望みを押し退けてでも、自分の意見に固執することがないでしょうか。

福音は、イエスに聞き、従う者への報いを、かけがえのないものとして描いています。「わたしは彼らに永遠の命を与える」。神の声を何よりも大切にし、全幅の信頼をおく人には、消えてなくなるようなはかないものではなく、永遠に続く命を与えてくださいます。神にいつまでも生かしていただけるのです。それは個人だけのことではなく、家庭にも、教会の家族にも言えることでしょう。一致して神の望みに深い信頼を示し、そこにすべての判断の根拠をおくときに、共同体は神によっていつまでも豊かにされるのです。一致協力してこの神の望みに応えることができるよう、ミサの中で続けて祈ってまいりましょう。