主日の福音 1993,05,02

復活節第四主日(JN 10:1-10)

真実の絆、それは

イエスが結んでくださる絆

今日の福音で、イエス様に守られている民が、「羊」として紹介されています。私たちも、神様に守られて生きている者ですから、今日の羊の姿から、イエス様と深い絆を保つ道を学ぶことにいたしましょう。

私たちの身の回りで、羊はそう見かけることはありませんが、日本人になじみ深い生き物におきかえると、ある程度イエス様のたとえも理解することができます。今日はそれを、ちょっと型は大きいですが、「牛」におきかえてみたいと思います。

私の実家には、牛が30頭近くいます。15年ほど前に父が仕事を替え、はったみ引きの船長だったのが、とつぜん牛飼いになったために、牛と暮らすことになりました。今は、仔牛を育ててそれを競りに出して生計を立てています。

私も、休みに帰ると牛の世話を手伝うことがあるんですが、牛小屋のそれぞれの仕切りの前には、一頭一頭名前を書いた札を提げています。名前をつけても、覚えきるとやろうか、と思うのですが、それは余計な心配で、飼い主はちゃんと名前を覚えているようです。たいしたものです。

雌牛ですから、ぜんぶ女性の名前がついています。「なに子」「なに代」「なに江」よくまああれだけ名前をつけきるものです。あんなに名前を思い出せる人だとは知りませんでした。そんな名前の信者さんが近くにいるのかも知れません。けれども、さすがに母の名前はついていませんでした。

牛は自分を養ってくれている人の顔をよく知っています。私も、「ようまた親父に似たもんたい」と言われるほど、よく似ているのですが、私が顔を近づけると、ぷいと顔を背けられてしまいます。腹が立つくらいです。

このように、生き物は飼い主との絆が深く、飼い主以外の者には警戒心を忘れません。いつかは、後ろから牛に近づいただけで、びっくりしたのか、足で蹴られ、その場でうずくまったこともあります。さんざんでした。

牛にとって、この一連の反応はごく自然な動作です。飼い主には絶対の信頼を置いていますが、飼い主でない人には目もくれません。そこでは人間の世界に見られるような、表面だけを取り繕うとか、信頼しているふりをするとか、そのような結びつきは一切ありません。ただあるのは真実な絆による結びつきと、それ以外の場合での警戒心だけです。

ここで真実な絆と言っているのは、表面的なつながりということではなくて、生き物の最も深いところ、いのちの部分での絆ということです。生き物は飼い主にいのちをすべて委ねており、飼い主はそれに応えて全力でいのちを守る。これがいのちの部分での絆です。

動物はこのいのちの絆を本能的に結ぶのですが、人間同士の場合はそうではありません。徐々に相手を知り、信頼を深め、最後にいのちをあずけていくという複雑な手続きを取ります。それほど、人間同士の間でいのちの絆を結ぶことは難しいということです。

イエス様は、そんな私たちに、生き物がまっすぐに飼い主にいのちをあずけていく姿をお手本にするようにと勧めています。もちろんその場合、いのちをあずける相手はイエス様であり、それ以外の相手は偶像ということになります。いのちをあずけたからには、イエス様は全力でそれを守ってくださるのです。

ところで私たちは、イエス様が自分たちを守ってくださっている、ときとして全力で守ってくださっているということを、どれくらい感じとっているでしょうか。ほとんどの場合、はっきりとした感覚はなくて、ただぼんやりそう思っているだけということなのかも知れません。あまりはっきりとしたものではないので、困難に直面すると慌ててしまって、誰に信頼をおいたらよいのか分からずに、目に映るいろんなものに頼ってしまうのではないでしょうか。

イエス様は仰います。「私は門である。私を通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」生活を振り返り、イエス様に養われている自分を、心に思い描いてみてはいかがでしょうか。

私が働いて家族を養い、私が教育を施して子どもを育て、私が祖父、祖母の面倒を見て……と言った、どこまでも私がしているという錯覚から、自分を解き放ってくださるように、神に祈りましょう。

自分が病に倒れたら、一家は路頭に迷ってしまうと考える向きもありますが、神様は必ずしもそうはなさいません。むしろ、人間のいちばん深いところでいのちを支えているのが神であることを忘れたときに、私たちは迷子になるのです。

実際、自分たちこそ教師であり、救いに到る道を知っている唯一の集まりだと思っていたファリサイ派の人々は、イエス様の今日のたとえがさっぱり分かりませんでした。自分を、神に委ねるつもりがなかったからです。イエス様に身を委ねることがいのちであると、認めたくなかったからです。

最終的に、イエス様を知ることは、ヨハネ福音ではイエス様を愛することに通じます。今の私が、イエス様の導き、照らしを知っているというのなら、もう一歩進んで、イエス様の導きを愛し、照らしと励ましを愛するようにいたしましょう。「神のみ旨が分からない」というようなときにも、イエス様を愛する気持ちをたもっているなら、信頼し続けることができると思います。

信仰者にとって、生きているとは、神に生かされていることにほかなりません。私たちを真のいのちに導くイエス様との絆を、いま一度確かめる日といたしましょう。「私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(Jn 10:10)。