主日の説教   1992,5,03

復活節第三主日(Jn 21:1-14)

今日の福音は、不思議な漁の物語として皆さんに覚えられている箇所が選ばれています。ヨハネがこの物語を通して伝えようとしていることを、私たちも少し黙想してみましょう。

ヨハネは、不思議な漁の出来事を、他の三人の福音記者と違うところに持ってきています。他の福音記者によると、彼らは不思議な漁を通してイエス様の弟子となっていくわけですが、ヨハネは、そのことには触れずに、復活ののち弟子たちに現れる場面で、不思議な漁を体験させています。ことさら場所を違えて書き残したのですから、何かのねらいがあると考えなければなりません。

ヨハネがここで取り上げようとすることは、「復活したイエス様は、私たちに命を与える」ということです。命を与え、生かしてくださるのです。ヨハネはそのことを、不思議な漁を通して、人間の五感に訴えようとしているのです。

弟子たちはこのことを敏感に感じとったのでしょうか。感じとったようです。それは「イエスの愛しておられた弟子」として登場しているヨハネが、ペトロに「主だ」と言っていることでわかります(see v.7)。

イエスの愛しておられたこの弟子は、イエス様のことを初め誰だか分からなかったけれども、このお方のおっしゃられた言葉が、その通りに実現していくのを見て、預言者のしるしをそこに発見しました。ご自分の言った通りに物事が成っていく。それは、主である神にしかできないことだったからです。

今、目の前で不思議な漁を体験させてくださっているのは、イエス様なんだ、私たち人間がどれだけ知恵を絞って努力しても得られなかったものを、ひとことでもって確かに与えてくださる方なのだ。この確信を弟子たちに与えるねらいがあって、ヨハネは不思議な漁を、イエス様の復活のあとの出来事として書き加えました。それはまた、彼らに漁の収穫を与えるというしるしを通して、食べ物によって表されている命そのものを弟子たちに与えることでした。

弟子たちに食べ物を与え、それによって命を養おうとされるイエス様の姿を見るとき、私たちも生かされてある自分を確認したいものです。「漁に行く」と意気込んで行った弟子たち。なかなか期待通りの結果を得ることができません。人間の努力にすべての価値を置こうとするとき、それはしばしば徒労に終わることでしょう。イエス様が私たちを養っている。彼が私たちの命を生かしておられる。それに気付いてはじめて、私たちの手の業が実りをもたらすのではないでしょうか。

わたしも、自分が神様に生かされていると気付かされて、心を入れ替えたという体験があります。小神学校の最後の時期、高校卒業も間近に迫ったころ、自分の進む道について迷い、いったんやめてしまったことがありました。自分でここまで頑張ってきたけれども、もうこれ以上頑張る気力がない。そう思って両親のもとに帰り、「やめる、やめるな、いややめる、やめてくれるな」そうやってずいぶん意地の張り合いをしました。

結局は父の熱意にほだされて、不承不承神学校に帰ったのですが、戻ってから、母が手紙で、わたしの出生の秘密について語ってくれました。母の手紙には、おおむね次のようなことが書かれてありました。

「あなたが神学校に戻ってくれたことを、母は本当に喜んでいます。あなたを神様にお捧げした最初の約束を、もう少し守れそうだからです。

実はあなたは、生まれたとき息をしていませんでした。そのようにして生まれれる子供はしばしばいるそうですが、わたしにとっては初めての子供でもあり、とてもつらい思いをしました。

もう一度息を吹き返してくれるなら、わたしはこの子を神様に捧げよう、そう決心したのです。神様が息を返してくださるのだから、この子は自分の好きにしないで、神様の好きなように使ってもらおう、そう決めたわけです。

あなたは自分で召命の道を閉ざそうとしましたが、あなたが歩んでいるその道は、あなたの力で歩んでいるわけでは決してないのですよ。それだけは見間違えないでください。」

母の手紙に腰が抜けるかと思うくらい驚いたのですが、わたしは、それを最後まで出さずにいた母の態度にひどく驚きました。家に帰ったときに、切り札で使えば良さそうなものですが、そうしないで、わたしがいったん頭を冷やしてから手紙に託したわけです。母は「言いそびれたのよ」と言っておりましたが、今では、神様がそのようなやり方を望んでおられたのではないかと思っております。

人間は誰でも、神から生かされている。それが分かったときに、信仰生活の一つ一つの行いが、本来の意味を取り戻してきます。魚が上がらずに途方に暮れていた時を見計らって、イエス様はおびただしい魚を用意してくださいました。神にすべてを委ねる心を失いかけていた時をねらいすましたかのように、イエス様は現れて、必要なものを与えてくださったのです。

私たちも、イエス様の呼びかけに敏感になりましょう。弟子たちに「何か食べ物があるか」と声をかけたとき、実は「その様子では魚はとれなかったようだね」という意味が込められていました。イエス様はすべて心得て、勘所を抑えて語りかけます。その「しるし」を見逃さないように、生活の節目節目に、神様のとのつながりをよく意識しましょう。ミサ、朝晩の祈り、集会など、生活に織り込まれた時間の中で語りかける神に、心を開きましょう。そのための恵みを、