主日の福音 1993,04,25

復活節第三第主日(LK 24:13-35)

主は生きておられる

私たちも、生きている主と親しく出会おう

今日の福音は、婦人たちに告げられた天使の言葉「イエスは生きておられる」という言葉を境に、物語の流れが変わっています。そこで、「イエスは生きておられる」という知らせを受ける前と、知らせを受けた後の弟子たちの変化に注目してみることにしましょう。また彼らを通して、私たちも「イエスは生きておられる」という言葉に触れてみたいと思います。

エルサレムからエマオへと向かっていた弟子たちは、イエス様に希望をおき、イエスと行動を共にしていた人々だったようです。けれども彼らの足どりは重く、うつむき加減で旅を続けていたかもしれません。頼りにしていたイエス様は、(私たちの)祭司長たちや議員たちによって死に追いやられ、イスラエルの民がローマから解放される希望も絶えてしまったのでした。

この弟子たちの失望は、ルカの手によって詳しく表されています。ルカはクレオパたちがイエス様のことを語るときに、出来事は完結して、そこから新しいことは何も生まれないという雰囲気を織りまぜて話させます。「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。」彼らがこう言うとき、そこには「今となってはこれも無駄だったのですが」との気持ちが裏にあります。

また、「私たちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」という言い方にも、「今はもうその望みも絶えてしまっています」というあきらめが覗いているのです。

そんな弟子たちに微かな希望を与えたのは、婦人たちを通して聞いた天使の言葉です。「イエスは生きておられる。」すなわち、出来事は終わっていない。イエスの栄光は死でついえてしまったのではなく、復活という新しい展開に入っていることを示しているのです。「こんなことがあった」「あんなことがあった」という、ご自分の過去の事実にイエス様は縛られず、「今、こうである」「今から、こうなる」という新しい未来へ、私たちを連れて行こうとするのです。

ところが、天使の言葉を受けとめるには、クレオパたちの信仰は準備ができていませんでした。誰かを通してイエス様の真実を教えられる。それを受け入れるには勇気が要りますが、彼らにはそこにたどり着くまでの信仰はなかったのです。そこでイエス様は、彼らをじかに導くことを計画されました。

ときとして、人間は神様について多くのことを教えられるよりも、ミサに与るとか、赦しの秘跡を受けるとか、聖体訪問をしたりするときに、多くのことを感じたり、教えられたりするものです。わが身にふりかかった災難を受けとめきれずに、人に「これはどういうことか、自分にとってどんな意味があるのか」多くを語ってもらうよりも、ミサに与る、聖体の前でしばし祈る、そんな時のほうが多く慰められ、安らぎを得るということは多くの人が体験していることでしょう。

イエス様も、やはり大切なときには、同じようなことを私たちに準備してくださいます。ここで、多くのことを知ってもらいたい、ここで、すっかり変わってもらいたい。そんなチャンスを逃すまいとして、イエス様は秘跡を通して、またそのほかの仕方で、私たちに直接働きかけ、照らしと導きを与えるのです。

では実際に、イエス様はどのようにして、ご自分が生きておられることをクレオパたちに示されたのでしょうか。主はまず彼らと歩みを共にされました。イエス様のすさまじい最後に心を乱され、イエスから心が離れていこうとしている弟子たちと同じ立場に立って、彼らと同じ歩みを辿ろうとされたのです。

次に、彼らの失望と、彼らが天使の言葉によって微かな望みをつないだことに、耳を傾けます。人間の弱さや、理解力のなさを、辛抱強く忍耐され、弟子たちが望みをかけた小さな灯火をイエス様は大切にしてくださいます。

そして彼らの心を開き、聖書の言葉が旧約から新約にわたって切れ目なく生き続けていること、その中でメシアはその使命をまっとうし、栄光をかち取られたことを解きあかされます。聖書が生きているということ、聖書の約束はメシアの死で終わらないことをもう一度思い起こさせました。

最後に、ご自分が今まさに生きておられることを、パンを割くときにお示しになりました。イエス様はクレオパたちに招待された客でしたが、食事の席では主人としての対応をされます。そこで弟子たちは、かつて主が私たちにパンの奇跡をなさったときに、主人として振る舞われたこと、さらには最後の晩餐の席で、主として食事を分け与えられたことを思い出したのです。同じ主であることに気付いたとき、そこには割かれたパンだけが残っていました。

「イエスは生きておられる。」天使の言葉は、はじめ弟子たちにとって微かな希望としか映りませんでしたが、それが主ご自身によって、確かなものとされました。イエスが生きておられることについて、一遍の疑いもなくなったとき、彼らは割かれたパンに養われ、12キロはあろうかと思われる道のりを一気にエルサレムまで引き返し、復活した主を証ししました。

私たちも、イエス様が直接働きかけ、導こうとする大きな恵みに触れることができます。教会の七つの秘跡は、私たちにイエス様が直接働きかける場です。このパンを食べるときに、この秘跡に与るときに、「イエスは生きておられる」という確信を、新たにすることにいたしましょう。クレオパに倣い、復活した主が疑いのないものとなったならば、時を移さずに出発いたしましょう。

「私たちの主は生きておられる。」生活の中でこのように証しをするとき、確かにイエスはあなたの中に、あなたを通して家庭や社会の中に、生きてくださるのです。