主日の説教   1992,4,26

復活節第二主日(Jn 20:19-31)

今週は主の復活をお祝いする第二週目、弟子たちが復活した主と出会う箇所が読まれました。主と出会った弟子たちの反応は、実に印象的です。「弟子たちは、主を見て喜んだ」。

ヨハネ福音書で、「喜び」という表現は、しばしば、主と出会ったことと関連しています。信仰者の喜びは、主との出会いの中にあるのだと、ヨハネは言いたげです。私たちも、主と出会うことの喜びを、福音から考えてみたいと思います。

実際に、主との出会いはどのような形でなされたのでしょうか。ヨハネはそのことをかなり詳しく、弟子たちの心の状態も含めて描いています。彼らは自分たちの家に鍵をかけて閉じ込もっていました(v.19)。ユダヤ人が怖かったからだと記されています(ibid)。

不安と、恐怖の虜になっていたこの弟子たちに、イエス様は会おうとされました。彼らを不安から解放し、イエス様の与える平安に生きる者とならせるためです。イエス様のねらいは、弟子たちが勝手にしがみついていたイエス像を捨てて、死の闇をくぐり抜けて勝利を得られた、本物のイエス像のうちに生きるようにと教え諭すことでした。主との出会いが喜びとなった理由が、ここにあります。

ところで、イエス様は、人々との出会いの場所を、いつも慎重に選ばれます。思い出の場所、出会いの意味を深く考えさせるような場所をしばしば選ばれるのです。先週弟子たちは、空の墓を見ました。けれども、主と出会うことはありませんでした。マグダラのマリアは、弟子たちとは異なり、その場で主と出会いました。彼女がはっきりと、主を墓所に捜し求めに出かけたからです。捜し求め、見つからず途方に暮れていた彼女を癒すために、主はすぐに現れたのです。

主がお選びになる出会いの場所は、人間が会いたいと願う場所、時間、環境とはしばしば異なります。主は、人間の満足を満たすためにやって来られるような、打算的な方ではありません。弟子たちが体験した喜びは、人間的には誰とも会いたくないと思っていた、心の扉も閉め切っていた場所で、イエス様と出会ったときに生まれた喜びでした。主と出会って喜びに満たされるためには、主が選ばれた場所、時間、環境でなければならないのです。

私たちは、こちらの思惑でイエス様と会おうとすることが、何と多いことでしょうか。「こんなに悩み苦しんでいるのに、どうしてイエス様は慰めてくれないのだろうか、助けてくれないのだろうか」。あるいは、「こんなにしばしばお祈りしているのに、どうしてイエス様は願いを聞いてくださらないのだろうか」。わたしの思惑でイエス様と会いたいと願っても、あなたの願いは決して満たされないでしょう。なぜなら、あなたが捜し求めている主とは、あなたの思い通りになる、そういう主であり、そんな救い主はどこにもいないからです。

イエス様と出会いたいのですか。それなら、イエス様が会おうとされる場所に導いてもらいましょう。彼から癒しと慰めを得たいのですか。それなら、彼が与えようとされる場所へ行きましょう。それはしばしば、私たちが思いもしなかった場所、時間、環境であるかも知れません。行きたくない場所、会いたくない人との出会いで与えられるかも知れません。いずれにしても、主が会おうとされる思い出の場所、慰めを与えようとする場所は、主が選び、決めてくださるのです。

主との出会いの不思議さは、トマスという弟子を通しても明らかにされます。イエス様はトマスと会う機会を、ほかの弟子とは別に設けられました。今日の朗読の半分以上は、イエス様とトマスとのやりとりで占められています。こうして教会は、この二人のやりとりに大切な意味が込められていることを、見える形で示しています。実際、トマスは、弱さを持った私たち信者すべての代表なのです。

トマスは、主との出会いの中で、確実に変えられていきました。「私たちは主を見た」(v.25)という同志たちの報告は、最初はむしろトマスを頑なにします。わたしも同じことを体験しなければ気がすまない、そうでなければ不公平だとでも思ったのでしょうか。これは、人間的な思惑でイエスとの出会いを求める姿と言えるでしょう。

ついにトマスにも、イエス様との出会いの恵みが与えられます。イエス様はトマスに向かい、言葉をかけられます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」。世間ズレした出会いを期待し、神様の計画に身を委ねない人間の惨めさを、イエス様はトマスの言葉をそっくり言い返すことで暴き出されます。

ちなみに、わたしには、イエス様の言葉は多少意地悪く聞こえます。「どうだ、あなたの思い描いていたイエスに会えてうれしいか。ここらへんで依怙地な『我』を捨てて、神の計画に身を委ねる人、信じる人になったらどうだ」というふうにです。私たちの心に秘められている隠れた思いを、見事に言い表しているのではないでしょうか。

イエス様がトマスに残された、最後の言葉も強烈です。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じいる人は、幸いである」。この言葉が、私たちに向けられているとすれば、この言葉を聞くたびに、繰り返し確信を深める機会になっているはずです。毎日の生活で、私たちはしばしばイエス様と出会う場所に導かれている。本当に喜ばしいことだと感じているでしょうか。それとも、私たちの代表のトマスと同じく、いつまでたってもわたしの都合、わたしの必要に合うイエス様を、信仰生活の中で求め続けるのでしょうか。

どうでしょう、たとえばミサに来るときに、「イエス様が会いたいと願っておられる時間、場所に、喜んでわたしの事情を合わせる」という気持ちで来てみてはいかがでしょうか。家庭で祈るとき、「この時間を使って、イエス様が私たちと会おうとしておられる」という気持ちで祈ってみてください。あるいは聖書を読むときも、イエス様がどこでわたしと出会おうとしているかを考えながら読むときに、イエス様の思いに触れるのではないでしょうか。

神様との日々の出会いである信仰生活、あなたの望みを中心にしてではなく、神の望みをこそ中心にして組み立てたいものです。ヨハネ福音記者は最後に言っています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが信じるためであり、信じて命を受けるためである」。あなたがたとは、まさしくあなたがたなのです。