主日の福音1992,12,25

主の降誕(早朝)(LK 2:15-20)

 

皆さん、主のご降誕おめでとうございます。私たちが心待ちにしていた、神のおん子が、人となって地上にやって来られました。これからしばらくの間、福音書に登場する羊飼いの一人に自分を置いて、生まれたばかりの幼子を探しに出かけましょう。

福音書の羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と言います。彼らはためらわずに出かけました。彼らは天使の言葉から、すぐに行動をおこさせる何かを感じたのだと思います。

 

すぐに出かけたと言えば、聖書に書かれている以上に現地に急行した人々が、おとといの『子供クリスマス会』で登場いたしました。

今年は五年生の男子、女子それぞれで劇を披露したのですが、男子には博士がイエス様を尋ねて行く聖劇をさせました。博士たちは急いで出かけようと、飛行機でユダヤに向かいます。ここで少しその雰囲気を紹介したいと思います。

 

では、はじめに、星が博士たちに知らせるところから……

(いちおう、咳払いの真似をして)

「ユダヤに行きなさい。全世界の救い主が、もうすぐお生まれになる」

 

それを受けて、三人の博士のやりとりが始まります……

 

これは大変だ。さっそく、旅の準備にとりかかろう。

ガスパル、心配いらないよ。ほら、パスポート。そんなこともあるだろうと思って、ちゃんと旅行会社に頼んでおいたのさ。

さすが、メルキオル。でも、どうして四人分あるんだい?

友だちの博士の分も、用意したんだけどなぁ。おーい、アルタバン。

もう、まにあわないよ、すぐに出かけよう。

 

こうして博士達は、劇の中では飛行機でユダヤに出かける設定にしていました。最初に子供にこのセリフを話したら、「神父様おかしかばい、イエス様の時代に何で飛行機のあっとね?……ま、面白かけんよかけどさ」と言われました。私は冷や汗をかきながら、「それだけ急いでいかんばいかんとやかね。洞穴で生まれとっとぞ、狼に食われたらどがんすっとや」と言って、やっと丸め込みました。

 

ところで実際問題として、羊飼いたちを動かしたのは、一体何だったのでしょうか。私は、天使が羊飼いに知らせたお告げに、そのヒントが隠されていると思います。

「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。天使はこのように羊飼いに告げました。はっきりと、「あなたがたのために救い主が生まれた」「布にくるまって、飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子がそれである」と知らせています。

「あなたがたのために生まれた」。この言葉に、羊飼いたちはどれほど喜んだことでしょう。救い主が生まれても、自分たちのような身分の低い者には、雲の上の話としか映らなかったことが、天使の言葉によって、いちばん身近なことに変わりました。私たちも、この羊飼いの立場に自分を置いてみましょう。天使は、私たち一人ひとりに呼びかけるのです。「あなたがたのために救い主が生まれた」。

 

彼らが心を引かれた、もう一つのことも大切です。この救い主は、王様にふさわしい宮殿におられるのではなく、動物の餌箱に寝ているのです。一定の宿を持たずに生活する、羊飼いたちと同じ立場に自らを置かれたことに、心引かれたのではないでしょうか。

この姿は、単に清貧だとか、謙遜だとか、それだけの意味なのではないと思います。人が、生きるためにしばしば頼りにする「衣・食・住」を、完全に奪われているという意味です。生きるために、人間的なものに全く頼れず、神だけが頼りという、ぎりぎりの姿なのです。羊飼いたちがこれまで実行してきた、神だけを頼りに生きたその姿を、この幼子はご自分の最初の姿として選ばれたのです。自分たちの暮らしぶりを救い主が喜んで受け取られた。これが、彼らがぜひとも見たいと望んだ、深い理由なのではないでしょうか。

 

さて、私たちはどうでしょうか。人間的なものに多くの部分を頼っている現代、おん子様の姿を喜んで受け入れることができるでしょうか。神が共におられる、それだけが頼りという態度を、生活の中心におく用意ができているでしょうか。すべての人間的な計算が取り払われたときに初めて、幼子イエス様の姿が現れてきます。

「今の私たちには、真似できない」と、イエス様を訪問することを諦めるのでしょうか。立派な宮殿に出向いても、にぎやかな歓声の上がっているところを探しても、今お生まれになったイエス様を探すことはできません。神様だけがその場所の唯一の光、赤ん坊の泣き声だけがこだまするところ、ほかのどんなものにも目を奪われることのない、あの洞窟に、私たちは赴かなければならないのです。

 

今日は私たちも羊飼いの一人になりましたので、彼らの心の変化に最後までおつき合いしましょう。羊飼いたちはおん子様を見て、心がすっかり変えられ、人々に出来事を知らせる使徒となりました。彼らは、十二人の弟子以前におん子様に派遣された弟子だったのです。今日同じ出来事を、この典礼の中で体験している私たちも、羊飼いと同じ「おん子様に遣わされる弟子」なのです。この喜ばしい知らせを、すべての人と分かち合えるよう、ミサの中で恵みを願いましょう。