福音説教 『主の洗礼』 1991年夏期課題

 

神学科三年  中田 輝次

 

今日私たちは、主の洗礼をお祝いしています。朗読されたマルコ福音書を黙想しながら、一人一人が受けた洗礼のお恵みについて、今一度考え直す機会といたしましょう。

まず、私たちが受けた洗礼は、どのようなものだったでしょうか。どこにその源を探すべきでしょうか。疑いもなく、今日読まれた主の洗礼の記事の中に求めるべきです。そこで、ヨハネから洗礼をお受けになったイエズス様に目を向けることにしましょう。

マルコ福音書の洗礼の記事には、洗礼者ヨハネとの会話のやりとりはなく、ただ洗礼の事実だけが取り上げられています。福音書記者がここで伝えたかったのは、洗礼の事実そのものであり、イエズス様の洗礼が、それ以後の洗礼を画期的なものにすることを強調しようというねらいがあるようです。

言うまでもなく、ヨハネが授けていた洗礼は、悔い改めの洗礼でした。やがて来られる救い主を迎えるにふさわしい心を準備するために、ヨハネは水で洗礼を授けていたのでした。イエズス様はこの悔い改めの洗礼におもむかれます。なぜこの方が自分から洗礼を受けようとされるのか、ヨハネは理解しかねていたことでしょう。イエズス様の方は、人類の救いという理由から、ヨハネの洗礼を受ける必要を感じていたのです。イエズス様は世の罪を取り除くために洗礼を受ける必要があり、先駆者による受洗は受難という《洗礼》の予表にすぎなかったのです。

こうして洗礼を受けたイエズス様の上には、聖霊が降りました。洗礼者ヨハネが預言した、画期的な洗礼「聖霊による洗礼」の始まりです。この聖霊によって洗礼を受けた者は、「真理において聖とされ」、実際に神の聖性を受けるのです。私たちも、この「聖霊による洗礼」を受けているのです。私たちの洗礼のお恵みはどのようなものでしょうか。

洗礼のお恵みを一言でいうとすれば、「神の子とされた」ということでしょう。神の子とされた私たちは、同時に「聖なる者」とされます。これが「聖霊による洗礼」の大きな特徴です。罪の清めはもちろんですが、その上に聖霊の特徴である「聖とする」力に与って、聖なる者とされるのです。

けれども自分の胸に手をあてるとき、どうひいき目に考えても、自分で自分を「聖なる者だ」という気にはなれないのではないでしょうか。人間的な弱さにしばしば陥る私たちが、どうして「聖なる者」でありえるのでしょうか。

 

 

 

教会学校で実際に目の当たりにしたことですが、洗礼を受けた私たちは、神様に特に愛されているということを話しましたら、一人の子が次のように詰め寄りました。「神様はすべての人を造った方で、分けへだてなくお恵みをくださっているんでしょう?洗礼を受けた人とそうでない人と、どう違うのさ」。日曜日に苦労して教会に集まる子どもたちの、せめてもの抵抗のように思われたりもしましたが、一面をついていると思います。大人の信者としては、この「聖とされた」という事実をどのように受けとめたらよいのでしょうか。

一つは、「聖化する霊」聖霊が現存している事実から、私たちは「聖なる者」と呼ばれています。これは神からの無償のお恵みであって、私たちの努力によるものではありません。受難の予表として洗礼を受けられた際に、イエズス様は自らを世の罪を取り除くいけにえとして渡され、私たちは代わりに聖霊を受け、決定的な清めにあずかることとなりました。恵みによって聖とされたのですから、私たちはいつも聖霊の神殿にふさわしい思いと行いを心がけるべきです。神のみ前にあることを知っている人は、神の望みに応えようと、生活の全般にわたって信仰の目で物を見るように心がけます。このような努力こそが、「聖とされた者」にふさわしい生き方です。

次に、「聖である」二つめの理由は、神が私たちを引き寄せてご自分のものとされたということにあります。洗礼によって神の子、神のものとされたことによって、私たちは聖とされているのです。従って、神との関わりにおいてのみ、私たちは「聖性」を語れるのであり、神なしに、何かの特権でもあるかのように私たちが持っているものではないのです。言ってみれば神にのみ属している身分のようなもので、神からその身分にふさわしい行動を期待されているということが出来ます。主の洗礼の場面には、そのことがはっきりと記されています。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」。御父のみ心に適った生活をするとき、私たちは「聖とされた身分」を人々に証しすることが出来るのではないでしょうか。

最後に、洗礼の恵みに生きる私たちが、生涯追い求めて行くべき姿を確認することにしましょう。私たちの唯一の先生はイエズス様、それも、十字架上で死に、復活されたイエズス様です。洗礼によってキリストに結ばれたのですから、都合の良いところだけでなく、キリストのすべてに結ばれたことになります。聖とされ、神のものとされたキリスト者の生き方とは、詰まるところキリストのように生きることなのです。

私たちは、聖パウロがローマ人に当てた手紙の中に、その結論を見ることができます。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」。

ただぼんやりと生きる死んだキリスト者ではなく、洗礼の恵みに日々生きるキリスト者となることができるよう、ミサの中で恵みを願いましょう。