主日の福音1993,01,10

主の洗礼(MT 3:13-17)

 

今日、イエス様は、自ら洗礼者ヨハネのもとに行き、ヨハネから洗礼をお受けになります。イエス様にとっての洗礼の意味合いを今日は考えながら、一人ひとり、洗礼を受けた者として、自らの洗礼の役割、使命について黙想することにいたしましょう。

 

イエス様の洗礼について、今日のマタイを含めて、三つの福音史家が出来事を記しています。それらを比べてみると、マタイは大きく二つの点で、マルコやルカ福音記者にない特徴を織り込んで描いています。洗礼の場面で、マタイがイエス様に持たせようとしている特徴とは、一体何でしょうか。

一つは、洗礼者ヨハネとイエス様との会話のやりとりを強調して、イエス様が、人間の思いをはるかに越えた、高い目的を持って洗礼を受けようと決心しておられたという点です。洗礼者ヨハネの質問が、このことを示しています。「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私のところへ来られたのですか」。彼は、イエス様の先駆けとして悔い改めの洗礼を授けていたのですが、自分が前もって知らせていたその方が、なぜ洗礼を受けるのか、理解できなかったのです。

 

洗礼を思いとどまらせようとするヨハネに、イエス様は静かに、しかしはっきりとご自分の意向を知らせます。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。ここで正しいことといわれているのは、おん父の前に正しいこと、すなわち、おん父の望みに答える行い、態度のことをさしています。

洗礼を受けることでイエス様がめざしておられることは、父のみ旨にかなうことだから、続けさせてほしい、止めないでほしいということだったのです。洗礼者ヨハネはこのイエス様の言葉から、神のひとり子のすぐれた目的を感じて、イエス様の受洗のお世話をしたのでした。

 

ところで、イエス様がいだいておられたすぐれた目的とは、どのようなものでしょうか。ここで、マタイの記事の二つ目の特徴を考え合わせる必要があります。マタイは、天からの声として、次の言葉を記しています。「これは私の愛する子、私の心に適う者」。

 

マルコ福音も、ルカ福音も、同じことを言い表すのに、「あなたは私の愛する子」と呼びかけ、イエス様と直接お話しているように描いていますが、マタイはイエス様を、居合わせたすべての人に紹介するかのように、「これは……」と言わせています。洗礼を受けられたこのイエス様が、人間一人ひとりと深く関わっておられることを、強調しようとしているといえないでしょうか。

 

ようやく、イエス様の受洗の意図が見えてきました。イエス様はすべての人と手をつなぐために、自らを罪人の列におかれ、人間一人ひとりと深く関わろうとしておられるのです。それによってイエス様は、私たちを神のもとへと連れて行く力強い導き手となること、おん父からの祝福が、ご自身を通して、洗礼を受けたすべての人にももたらされることになったのです。

 

こうして、イエス様の洗礼の出来事を通して、洗礼を受けるすべての人が、イエス様に直接結ばれることとなりました。イエス様はその先頭に立って、洗礼を受けたすべての人の歩む道を示し、あるいは支え、励ましておられるのです。従ってイエス様の生涯、受難と死と復活のドラマは、洗礼を受けた神のおん子のドラマであり、それはそのまま、私たちのドラマの先取りなのです。

 

ですから、私たちは自分の歩む道に困難を感じるとき、不思議に思う必要はありません。先頭に立って進まれるイエス様が、十字架の道を通って救いをかち取られたからです。人の無理解にあうとき、そこだけを取って口をとがらせる必要はありません。イエス様は誰よりも人間の無理解に合い、迫害されたのです。

 

そんなとき、先頭に立って進まれるイエス様が、どのような態度を取られたのか、どこに目を向けて対処されたかを学びましょう。イエス様の賢い態度に倣うことは、イエス様がかち取られた勝利に確実に与る道でもあります。洗礼を受けて生きている私たちのお手本は、どこまでも洗礼を受けられたイエス様なのです。

 

イエス様は、私たちを導かれる模範となりました。私たちにも、その使命は与えられていると思います。福音をよく見ますと、イエス様が洗礼を受けてから、天が開いたとあります。天はそれまで誰にも開くことができず、閉ざされていました。それが、洗礼を受けたイエス様を通して開かれたのです。洗礼を望むすべての人に、それは同時に開かれたのです。

 

昨年、大人の洗礼式が12月20日に行われました。その中に、家族で洗礼を受けられた方がおられたのですが、わたしは、他の方の洗礼にもまして、強い感銘を受けました。それは教会の大きな恵みであり、私たち一人ひとりにとっても、洗礼のすばらしさをもう一度考えさせる出来事ではなかったかと思います。そして、洗礼を望む人に、私たちが働きかける必要を、新たにさせる機会ともなってきます。

 

今年一年読まれるマタイ福音書の最後の言葉は、イエス様の次の言葉です。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。恵みと使命、両方について今日一日、考えてみてはいかがでしょうか。