主日の福音1992,00,00

待降節第四主日(MT 01:18-24)

 

今日の福音で、マタイが、誰を主人公に置いているかに注目してみたいと思います。その人物を通して、ご降誕までの直前の準備のお手本を学びとることにいたしましょう。

 

おそらく、大抵の方が、今日の箇所で主人公はヨセフ様だと見抜いておられることでしょう。全くその通りで、誠実ではあるけれど、人間の理解を越える出来事に出会して戸惑っている一人の人、この不可解な出来事を、人間が考え得る最も誠実な方法で解決しようとしている人、最後には、身の振り方を神様の声に従わせた、このヨセフ様が今日の主人公です。

 

はじめに、ヨセフ様が、許嫁のマリアに起こった出来事を、どのように受けとめていったのか、考えてみましょう。ヨセフにとって、マリア様に起こった変化は、人間的には非常に受けとめにくい事柄でした。「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(v.18)。神様の働きかけで、この女性は胎内に赤ん坊を宿している。自分の手の届かないところで、神様のみ旨が行われている。わたしのような者が、そこに立ち入ることなど、到底できそうにもない。そのような気持ちから、静かに身を引こうと考えたのも無理のないことだと思います。

 

誠実な人物が、精一杯知恵を絞って考えた結論ですから、人間的にみればもっともな態度だったのですが、神様はそれを乗り越えてほしいとお考えになりました。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずに妻マリアを迎え入れなさい」(v.20)。マタイはここで、イザヤ書7章を引用して、ヨセフがマリアの胎内の子どもを、「インマヌエル」「神が我々と共におられる」そのしるしとして見たのだと言おうとしているようです。この「インマヌエル」「神は我々と共におられる」ということが、ヨセフの心を動かしたということです。

 

ところで、私たちの生活を振り返って、このヨセフ様に起こったようなことが、自分の身の回りに起こっていないでしょうか。人間的に、非常に理解しにくい出来事にぶつかり、それを自分なりに精一杯考えた上で断る、拒むと言うようなことです。たとえば、わざとではないかしらと思えるほど、自分と肌の会わない人と仕事をしなければならなくなったとか、とても担えそうにない大役、地区委員だとか、班の班長さんだとかになってくれと言われる、そういったことです。

 

こうしたときに、十分考えた上で、お断りする、そこから身を引こうとするのはしばしば起こり得ることです。「神様から頼まれない限り、引き受けるつもりはない」そう言うかも知れません。ヨセフ様も、同じような気持ちだったと思います。そんなとき、ヨセフ様が天使のお告げで気付いたことは、「今、まさにこの出来事の中に、神が共におられる」ということでした。「神が共におられるなら、何とかなるだろう」そんな希望が、心の中に湧いてきたのでした。

 

「この出来事の中に、神がおられる」。言葉にすると短い一言ですが、自分自身を信頼する心を捨てて、この一言に賭けるためには、大きな勇気が必要です。しばしば、この一言に聞き従うことをためらい、またはこの言葉が信じられずに、物事がうまくまとまらないということが多いのではないでしょうか。

 

わたし自身も、思い切って飛び込めない、そのような体験をしたことがあります。司祭になる一年前、助祭の叙階を受けたのですが、さすがにこのときばかりは自分では決めにくいという迷いがありました。間近に迫ったその務めが、大きな務めであるだけに、自分では担いきれない、いっそのこと誰かに「あなたはならないほうがいい」と言ってもらえば、身を引く理由ができるのだが、そんな、人間的な計算が働いたのでした。

 

冬休みを前にした、ちょうど今くらいのときに、指導して下さっている司祭に相談したところ、それはだれしも感じることだと前置きした上で、次のようなことを言って下さいました。「あなたは準備ができていないとか、自分はふさわしくないとか、いろいろの理由を並べ立てるけれども、どうしてこの一年間の間、神が共にいて下さったことが信じられないのですか。

 

神様はあなたが思い描く時間割、計画表を使われるのではなくて、ご自身持っておられる時間割、計画表に従ってあなたを準備してこられたのです。もし、それが理解できないのでしたら、あなたの考えている通りにしなさい。ちょうどクリスマスがやって来ますから、冬休みの間、この一点だけをじっくり考えてきて下さい。待ってます」。

 

「インマヌエル」「神が我々と共におられる」。なるほどそういうことかも知れない。その年のクリスマスに、初めて、「共におられる神様」幼子イエス様を心から受け入れる気持ちになれました。

 

神様はどんな立場の人にも、「私はあなたたちと共にいる」と呼びかけています。おん子イエス様の誕生が、それをよく表わしています。神のおん子がこの世に生まれたとき、宿屋一つさえ見つかりませんでした。「見つからなかった」と言うよりも、拒まれたと言って良いでしょう。暖かい毛布も、おいしいごちそうも、いっさいを拒まれた方は、それでも微笑みをもってこの地上にやってこられたのです。愛のないところにも、愛をもたらすためにやってこられました。

 

今置かれている立場、そこに神が共にいてくださいます。希望と信頼をもって、それを受け取りましょう。そのための恵みと力をミサの中で祈りましょう。