主日の福音1992,12,13

待降節第三主日(MT 11:1-11)

 

「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。今日の福音で洗礼者ヨハネが、使いの者に言わせた言葉です。教会の暦も、ご降誕を間近にひかえていますので、この洗礼者ヨハネの態度から、イエス様をお待ちする今週一週間の糧をさがしてみたいと思います。

 

洗礼者の言葉は、彼自身の心の動きを、わりあいはっきりと匂わせています。彼自身は、「来るべき方」に先立って、神様から遣わされた者です。そして彼が思い描いていたそのお方は、先週の福音にもありましたように、「手に箕を持って、……麦は集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払う」(MT 3:12参照)という、迫力のある方でした。

 

ヨハネが聞きつけたイエス様の姿は、これとは多少食い違っていたのかも知れません。「来るはずの方はこの方に違いない」。そういう確信はありましたが、彼の弟子を含めて、すべての人がそうだったとは限りません。そこで使いの者に、先ほどの言葉を言わせたのではないでしょうか。洗礼者ヨハネの質問は、次のような心の動きを言い表したものだと思います。「徹頭徹尾、あなたをお待ちしてまいりました。万が一、あなたが『来るべき方』でなければ、今までの希望は全く無駄だったことになります」。

 

イエス様はヨハネの心の動きを良く理解され、ヨハネの質問には直接お答えになりません。ヨハネの質問には最初から、正しい答えが含まれていたからです。もし「来るはずの方はあなたでしょうか」とだけ問うならば、ヨハネはだれを最終的に待つべきなのか、まだ決めかねていて、不安のあまり、使いの者をやったということになるでしょう。

 

そうではなく、彼はイエス様だけをお待ちしていました。それで、「それとも、ほかの方を……」と付け加えたのです。ですからイエス様も、ヨハネの問いはすでに正しい答えを含んでいるから、ただ事実だけを彼に知らせるようにと、使いの者に命じたのでした。これはヨハネの弟子たちにとって、特に慰めになったことでしょう。

 

私たちにも、洗礼者の態度がそのままお手本になります。待降節を通して、主のご降誕をどのように用意していくかというと、やはり、「イエス様だけに希望をおき、この方をひたすら待ち望む」ということになります。この、透き通った心と言いましょうか、純粋な心を育てるとき、真の意味で私の心はイエス様の方に開かれ、解き放たれていくのだと思います。

 

もうすぐ来られるイエス様のために、心が開け放たれているというのはとてもすばらしいことです。少し具体的にするために、一つの例を申し上げましょう。

 

先週、カトリックセンターでは、「子ども聖歌の集い」という聖歌の発表会がありました。各教会から、子どもの聖歌隊を集め、それぞれ課題曲と自由曲をみなさんの前で発表し合うというものです。無事に発表が終わり、感謝のミサをたくさんの子どもと10名近い司祭とでお捧げする中、次のようなことを説教で言いました。

 

「みなさん一人ひとりには、神様が与えてくださった喉があります。それは神様がみなさんにくださったプレゼントのようなものです。神様はその喉を使って、ご自分のために一生懸命聖歌を歌ってくれることを楽しみにしています。

 

プレゼントをいただいたとき、それを喜んで使ってもらうことは、プレゼントを用意した人にとって最高の喜びですね。神様もおんなじ気持ちだと思います。みなさんにプレゼントしたものを、ミサの中で、またおうちに帰って、お友達との間で、良いことのためにどんどん使ってくれれば、神様は飛び上がって喜んでくれると思います。

 

『これは僕のものだから、だれにもあげない』『この声はミサのときにはもったいないから、歌わない』そんなけちな考えを持っていたら、贈ってくださった神様は、きっとさびしい思いをすることでしょう。そうではなくて、反対に、神様が喜ぶような使い方で、どんどん喉を使ってください。その声を響かせてください。それが、みんなにとっての、神様を喜ばせる方法です。神様を心の中で活躍させる方法です。このあとも、続けて大きな声で歌いましょう」。

 

このような心が育つとき、子どもの喉は、その声は、神様のために解放され、神様が最高の形でそれを使ってくださるのではないか、と考えています。

 

福音には、神にのみ希望をおいている人が、解放されていく姿が描かれています。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、……貧しい人は福音を告げ知らされている」(4-6参照)。私たちも、おん子を生活の中心に迎えることができるよう、心を解き放ってもらいましょう。神に、私の心を自由にしていただきましょう。

 

今日のお話しのまとめとして、イエス様の次の言葉を用いたいと思います。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか?」

私たちは何をしに、今日のごミサに集まったのでしょうか。ただ務めを果たすためだけにやってきたのでしょうか。私の心を、おん子をお迎えするにふさわしく造り変えていただくためではないでしょうか。