主日の福音1992,12,06

四旬節第二主日(MT 3:1-12)

 

今日の説教の中で、二つのことをお話ししたいと思います。一つはもちろん、今日の福音についてです。もう一つは、神学生の援助のことについてです。

 

福音は、荒れ野に叫ぶ洗礼者ヨハネを登場させて、もうすぐ救い主がこられることを、例によって厳しい調子で語らせています。マタイ福音記者が洗礼者の口から何かを語らせると、マルコや、ヨハネよりもことさら厳しい言葉が出てきます(ルカは、マタイにならって、この記事を書いたのでしょう)。それもこれも、マタイのねらいを十分に洗礼者ヨハネに果たしてもらうためでした。すなわち、「悔い改めなさい」ということです。

 

日頃はあまり考えないことですが、ある人がある場所に住み着く、ある場所を好むという場合、やはり何かの理由があるものです。静かな場所に住む人の場合、やはり生活に静けさを求めようとする心の動きがあります。町中に住む人なら、生活の便利さとか、忙しい生活の必要に迫られてということがあるでしょう。だれでも、そこにいつくそれなりのわけがあるのです。

ところで洗礼者ヨハネは、町中には住みませんでした。イエス様の先駆者として、都会の便利さを考えにいれませんでした。彼が住み着いたのは荒れ野、生きるためのぎりぎりの物しか得られない、本当にすさんだ土地を選びました。荒れ野はしかし、言い方をかえれば、人間の声に惑わされず、ひたすら神の声に耳を傾けるための場とも考えられます。洗礼者はその一点だけを生活の必要事と考え、この荒れ野を選んだのではないでしょうか。

 

この荒れ野に、人々は集まります。人々はすでに、洗礼者の迫力とか、厳しい口調を噂であっても聞いていたでしょう。何を言われるか分からないと思っていたと思います。それでも、心を入れ換えて、神を待ち望む必要があると感じて、続々とやってくるのでした。

私たちが教会に来るときも、このような人々の気持ちにあやかりたいものです。神のことばに養われ、生活にそれを持ち帰って、神様の望みを生活に行き渡らせる。やはりそのためには、神のことばが響きわたる場に、週に一度くらいは足を運ばなければならないのではないでしょうか。

 

洗礼者ヨハネは、任せられた務めが一番効果的になされる場所に立ちました。厳しい言葉でしたが、人々は喜んで耳を傾けました。厳しかったから聞いたというよりも、そこに神のことばを読み取ったので、すすんで聞き入れたのです。

 

一人ひとりが、神の言葉を読み取ろうという気持ちで福音に耳を傾ける時、神を待ち望む態度が生まれ、育まれます。それは自分好みの言葉や、当り障りのない言葉でなく、まっすぐに神の言葉を伝えるメッセージだけがもつ力です。このことは説教者にも真剣さを求めるでしょうし、司祭の生きがいにもなってきます。「いつも、何かを解き放たれる」。これが、説教を準備しながらの私の感想です。

 

洗礼者ヨハネが告げるお方「あとから来られる方」は、「聖霊と火で洗礼をお授けになる」お方です。人間は、火を自由自在には扱えません。神様だけができることです。ですから、イエス様の到来は、私たちの生活をすっかり神様によって変えてもらうことにつながります。心のすべてを開いて、神様のおいでをお迎えする用意をいたしましょう。神様の火に耐えられないものを、せっせと集めていないでしょうか?幼子を迎えるだけのおおらかさをもちたいものです。

 

今日は、もう一つのお話しをいたします。神学生の援助のことです。長崎教区のすばらしい伝統として、この十二月に神学生養成のための援助を募る習慣があります。すべての司祭が、皆さんの援助によって実際に巣立っていきます。そういうわけで、皆様の家庭に配られる封筒に、ぜひ目を留めていただきたいのです。

 

私が、神学生援助のことを知った二つの出来事を紹介いたします。一つは実際に婦人会の方が援助を募って回っていたときの思い出です。私の家にその方がこられて、世間話から始まって、肝心の封筒のことになりました。その時こんなやりとりがありました。「どうもすみませんね」「いいえ!私たちは人間は出しきらんけん、こんな協力は惜しくなかとよ」。これにはいたく心を打たれました。

 

もう一つは、夏休みが終わって神学校に帰ろうとしていたときのことです。当日になって私の弟が熱を出し、病院に運ばれました。母は「自分で準備して、ちゃんと行きなさいね」。とだけ言い残して、父の車で病院に行きました。「分かった」と言って道路に出たのはいいのですが、一日三本の奈良尾行きのバスではもう間に合わない時間だったし、タクシー代もありません。途方に暮れていたところ、あまりよく知らないおじさんが、「神学校に帰るとね」と声をかけました。

 

帰るに帰れないでいると言いましたら、「こいでタクシーに乗って行かんね」と言って、お金を出してくれました。「おじさん、名前ば教えてください」と言ったところ、「おじさんはおじさんたいね。子供が心配することじゃなか」と言って、やってきたタクシーに押し込んで送ってくださいました。

 

神学生は、すべての方のお世話でとつとつと歩んで行きます。どうぞ、目に見えてはお礼の一言もないかも知れませんが、皆さんの寛大な援助をお願いいたします。神様はきっと、「この人にしてくれたことは、私にしてくれたことだ」と言って、報いてくださると思います。そして実際に、このイエス様がもうすぐやってきます。一つ一つの愛のわざを通して、この待降節を実りあるものにしてまいりましょう。