第五回:福音宣教者を育てるイエス

黙想会の説教も、今回で最後となりました。三日間の黙想の締めくくりとして、イエス様が私を宣教者として育て、社会のなかに送りだしてくださるということを考えてみましょう。特に、私たちはミサのなかでいただく御聖体に養われ、宣教者となっていくのだということに焦点を当てたいと思います。

その前に、今回の黙想会のために、思い切ってあることを実行してみました。すでに新聞でお知らせしたことですが、この黙想会のお話は、あらかじめテープに録ってありまして、ある目的のために30セット用意してあります。
その目的とは、私が今年一年、心ひそかに思っていた、「全員参加」という目的です。日曜日のミサもそうですが、私が伝えたいことは、こうして教会に集まっているみなさんだけのものではなくて、寝たきりの人、寝たきりではないけれども、足が弱くて教会までは来れない人、なかなか教会に来たがらない人、すべての人に伝えたい内容です。
特に黙想会は、みなさんも感じていると思いますが、やはりあずからないと落ち着かないほど、大切に考えていると思います。健康な人がそうであるなら、病人はなおさらです。自分は今年の黙想会に与れなかった、そう思って心を痛めている人がかなりいらっしゃるのではないでしょうか。
そういう人が、家庭に、あるいは病院にいらっしゃるのをご存じでしたら、あとでテープを玄関に用意しますので、届けてあげてください。そして、このテープを聴いたら、黙想会はちゃんとあずかったことになるそうですよと、愛情を込めて話してあげてください。

これは、私が知恵を絞って考えた「全員参加」の一つの形です。黙想会は、ふだんの日曜日のミサではゆっくり考える時間のないことを、時間をかけて分かち合う場です。一人残らず、みんなで考えて、今年一年の方向を決めていく大切なひとときです。
ですから、心ならずもこの場にこれなかった方々にも、話したことを考え、祈ってほしいのです。イエス様はこう仰いました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」このイエス様の願いを、私たちも形にしましょう。
テープはあります。あとは、これを運んでくださる方が必要です。病人によっては、付き添って機械を扱ってくれる人も必要でしょう。それも、みなさんの熱意にお任せします。みなさんが良き神の手足となって、病気の人、一人暮らしの方に奉仕してくださることを心から期待しています。

ほかにも、みなさんの中で欲しい人がいらっしゃるなら、求めてください。もうすでにちらほら聞こえているのは、「いっぺん聞いても、忘れるから、あとで聞き直したい」という方もいらっしゃるようです。
また、うちの息子・娘は、黙想会にもあずかってないのではないか、あの人、この人にも、今年の黙想会の話を聞かせてあげたい。そんな要望がありましたら、どうぞ利用してください。代金は、黙想会に参加するという趣旨ですから、黙想会の参加費と同じにします。
念を押しておきますが、いちばん大事なことは、みなさんが福音宣教者になることです。一人でもたくさんの人に、イエス様の生きた声を届けるために、みなさんが腰を上げることです。全員が黙想会にあずかることができて、こんなテープが必要ない状態がいいに決まっていますが、現実はそうではありません。
病人は仕方がないとか、さまざまな理由で教会の動きから取り残され、みんなに聞いて欲しいという私のささやかな願いは無駄になり、楽しかったとか、難しくて分からなかったとか、黙想会の結果が教会に来たみなさんだけで終わってしまう危険はいくらでもあるのです。テープの中身はたいしたことないかもしれません。でも、みなさんが福音宣教者になって、動き始めることを、私は切に願っています。

それでは、今日のお話の中心に入っていきましょう。この最後の話を通して、御聖体に養われ、宣教者の意識を新たにして、社会に遣わされていくことができますように。
さて、みなさんにとって、日曜日のミサはどれくらい生活に影響を与えているのでしょうか。本音で考えてみてください。尋ねる私は、少しばかり意地悪になって、これくらいですか、それともこれくらいですかと尋ねますから、自分なりの答えを出してみてほしいと思います。
ミサは、みなさんの生活に大きな影響を与えていますか。心が慰められ、勇気を奮い立たせ、新たな一週間を力強く歩む源となっていますか?さらにミサは、生活に影響を及ぼすものの一つですか、それとも、日々の生活を歩む力のすべてですか?
あなたにとって、ミサはあまり生活に影響を及ぼしませんか?たとえ、ミサに与らなくても、自分で日々の生活を全うしていけると感じていますか?ではなぜ、ミサに与っておられるのですか?
あるいは、日曜日のミサは、たんなる気休めですか?それとも煩わしいものですか?私の生活にいちいち口を挟んで、考えたくもないことを蒸し返す、迷惑な出来事ですか?
今、三つの例を挙げましたが、あえて考えると、どれに当てはまりますか?
私も祭壇の中央に立って、ミサを捧げる者として、重大な責任がありますから、じっくり考えていきましょう。

まず、ほとんど影響を及ぼさない、あるいは迷惑だと考える方々に呼びかけたいと思います。
乱暴な言い方をして申し訳ありませんが、ミサに与っても、給料に跳ね返ってこない、そう考えておられるとしましょう。ですが、あなたの手足を使って、頭を使って稼いだ給料は、質の高い給料になっていますか?ただ単に稼いで、またそれを使って、また稼ぐ、その繰り返しになっていませんか?
「とんでもない、わたしはこの給料で家族を養い、守っている。」確かにそうでしょう。ですが、お金が、家族の明日を保証するのですか?黙想会の最初に考えましたが、給料が家族の明日を保証するのでは決してありません。黙想会の初日、あれだけ釘を差されても、まだ承知できませんか?人間の経済活動を深いところで支え、明日を保証するのは、神なのです。それを確かなものにするために、ミサに来るべきではありませんか?
ミサが、あまり生活に影響を与えないというみなさんにも、私はひとこと言いたい。「あまり生活には結びつかない」とは、どういう意味ですか?ときには私の生活を支えてくれたり、そうでないときもある、ということですか?まぁ、そのとき行ってみて、たまたま私の生活に励ましとなってくれれば、という淡い期待でミサに与っているということですか?
「別に、そこまでは思ってませんよ。ただ、あまりつっこんで考えたことがなかっただけです。」では、今、考えてください。年がら年中、こんなやかましいことを私も言いたくないので、この話のあいだに、精一杯考えてください。ぜひ、考えるべきだと思います。

平日のミサも含めて、ミサ聖祭が、私の生活を大きく動かしてくれる。このミサの恵みが、私のいのち、私の活動を深いところで支えている。そうです。私たちは、神なしには生きていないし、過去も、現在も、未来も、神なしにはあり得ないのです。あなたの過去、現在、未来をご存じの神に身をゆだねるために、私たちは洗礼を受けたのではないでしょうか。
こうしてみると、ミサに与る私たちは、もっと恵みに近づけるよう、心を開いていただけます。イエス様が祭壇上で命をささげ、わたしたちにいのちを与えてくださることが、もっともっと心を動かすようになるでしょう。
何と大きな望みでしょうか。私のいのち、すべての活動を見守ってくださるように願うのです。誰が、こんな大それたことを人に頼むでしょうか。これほどの願いを「お安いご用」と、引き受ける人がどこにいるでしょうか。私たちはふつうでは考えられないような願いを、御聖体のイエス様に願うのです。
また、願いの大きさに比べて、しるしは何と小さなことでしょう。手のひら、舌の先にのるほどのあの小さな聖体が、わたしたちに与えられたしるしのすべてです。あの小さなしるしの中に、私たちのいのち、活動の源、希望のすべてがあるのです。

小さな小さなしるしの中にとどまっておられる偉大なイエス様を認めることは、信仰の業ですが、難しい面もあるでしょう。あの御聖体は、ご自分を小さなもの、無に等しいものにしてくださった明らかなしるしです。何とかして、あの小さな御聖体の中におられるイエス様を生き生きと認めていく工夫はないものでしょうか。
御聖体に心を開く鍵は、まずは私たちが小さくなってみることです。じつは、ミサの流れの中に、私たちの信仰を助けるヒントが隠されています。まず、ミサの最初の頃に、「主よあわれみ給え」と、「天のいと高きところには神に栄光」という祈りを歌で唱えます。
あの部分、先に「主よあわれみ給え」と唱えて、私たちはあわれなもの、主のあわれみがなくてはならない者であることを言い表しています。自分を低くし、謙虚な者になって、御聖体にあずかる最初の準備が、ここで始まります。
「天のいと高きところには神に栄光」の部分では、神の偉大さをたたえ、そのことで、人間と神の開きを知り、小さな御聖体に、これだけの偉大な神がとどまってくださることを感謝します。
ミサの中程、福音の朗読と説教のあとで、信仰宣言を唱えます。信仰宣言の中で、イエスキリストの生涯を思い起こし、このイエス様が御聖体となって、私たちを生かしてくださることをここでも確かめることができます。

聖体拝領の直前には、「主の祈り」と「拝領前の信仰告白」を唱えます。「われらの日用の糧を、今日われらに与え給え」という祈りは、聖体に生かされたいという私たちの願いをそのまま表します。
聖体をいただくいよいよのところでは、日本語のミサでは次のような言葉を唱えます。「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧。あなたをおいて、誰のところに行きましょう」(マタイ16:16,ヨハネ6:68参照)。
日本語のミサでは少し書き換えられましたが、もともとのミサの中では、次のような祈りになっています。「主よ、私なあなたをお迎えするのにふさわしくありません。ただ、ひとこと仰ってください。そうすれば、しもべはいやされます」(ルカ7:7参照)。
もともとの祈りの言葉のほうが、私たちがこれまで考えてきた「小さなしるしの中にイエス様を認める」努力を助けてくれるように思います。「ふさわしくありません。ただ、ひとこと仰ってください」。これで、御聖体に希望を置く私たちの準備が、すべて完成するわけです。

小さな御聖体でありながら、私たちは誰にも期待しないような大きな願いをミサ聖際に、特に御聖体に託しました。ミサが終わると、「行きましょう。主の平和のうちに」という言葉で、それぞれの生活の中に送られていきます。そのときから、私たちは福音の宣教者に変わります。「地の塩」「世の光」となっていくのです。
黙想会を通して、私は今年一年の目標を考えてみました。それは、「私たちはみな、福音をたずさえて暮らしている」ということです。もう一度繰り返します。「私たちはみな、福音をたずさえて暮らしている」。
私がこちらにお世話になって、過ぎたこれまでの約一年、「ミサの全員参加」ということが目標でした。実際にあずかることのできない人、あずかれるのにあずかろうとしない人のことを、どのように心に留めていくかも示したつもりです。この一年の動きを土台にして、今年は「私たちはみな、福音をたずさえて暮らしている」ということを意識し、証ししていくことにしましょう。
この目標を具体的に形にしていく場所を三つ考えてみました。仕事場、家庭、地域の人々との交わりです。

まず、生活のほぼ半分の時間を過ごす仕事場から考えましょう。仕事の中には、肉体労働、事務職、接客などさまざまな職種がありますが、どの職種にあっても、「私たちはみな、福音をたずさえて」います。日曜日のミサに与って御聖体をいただき、生活のすべてに神の保護を願ったのですから、自分の持ち場、任されている仕事を責任を持って果たしましょう。
何も、「君たちは福音を持っていないが、私はたずさえている」とそこまで考える必要はありません。あなたを通して働くのは、あなたを送り出したイエス様です。私たちは、まずは仕事を精一杯こなすことに集中します。
その間に、いろいろなことが起こるでしょう。意見が食い違ったり、誰かが協力してくれなかったりと、解決しなければならない問題が起きたとき、私はどう振る舞ったらよいでしょうか。そのときは、あなたの中にとどまっておられる方に照らしを願います。仕事がうまく行き、みんなで喜び合うとき、神に感謝することにしましょう。こうしたことを絶えず繰り返すことで、「福音をたずさえて暮らす宣教者」に変わっていきます。

次は家庭です。家庭は、活動している時間と休んでいる時間を合わせると、生活のほとんどの時間を過ごす場所です。私はここでも、「福音をたずさえて」暮らしています。
家庭の中では、父として、母として、あるいは夫、妻としての役割があると思います。それぞれの立場で、家庭の平和、お互いの信頼、またときには、互いに赦し合うといったことが出てきます。「私が平和を作ってやるのだ」とか「私があなたを赦しているのだ」と、自分の努力に土台を置くのではなくて、この家庭に、ミサのときにいただいた福音がとどまっているから、平和を保ち、相手が信頼でき、赦し合えることを確かめてください。
祈りは、家庭の中で「福音をたずさえて暮らす」大きな支えになります。朝晩に祈る家庭は、「福音をたずさえて暮らす」ことをあきらめない家庭です。私は絶対にあきらめない。ミサが私の生活を支え、聖体が私の中にとどまって、一人ひとりにいのちを与えていることを信じ続ける」その決意の表れが、朝晩の祈りだと思います。
四六時中、「福音、福音」と、ぶつぶつ呟く必要はありません。家庭の暮らしの中で、ある時、答えを出す、結果を出すときがあるものです。そのとき、自分の努力や才能で答えを出すのではなくて、ここまで家庭を築き上げられたのは、聖体に養われているおかげではないかしら、そう振り返れたら、と願っています。

地域の人々との出会いの中でも、「福音をたずさえて暮らす」人となりましょう。ここでは、有名なアシジの聖フランシスコの祈りに、説明を託したいと思います。

「平和を求める祈り」
神よ、私をあなたの平和のために用いてください。
憎しみのあるところに愛を、争いのあるところに和解を、
分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに真実を、
絶望のあるところに希望を、悲しみのあるところに喜びを、
暗闇のあるところに光をもたらすことができますように、助け導いてください。
神よ、私に慰められることよりも慰めることを、
理解されることよりも理解することを、
愛されることよりも愛することを望ませてください。
私たちは与えることによって与えられ、
すすんで赦すことによって赦され、
人のために死ぬことによって、永遠に生きることができるからです。
アーメン。

今年一年の目標も決まりました。あとは、機会あるごとに私も声を上げたいと思いますので、この目標を心に留めて、また次の黙想会まで歩き続けてください。
最後に、聖書の一節を朗読して、この黙想会を締めくくりたいと思います。ヤコブの手紙、第1章です。


御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。

御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。

御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。