第四回:神のあわれみは永遠

今回の話は、赦しの秘跡に合わせてお話ししたいと思います。赦しの秘跡の準備のつもりでお聞きください。
私は、五島の鯛ノ浦というところで、五人兄弟の長男として生まれました。いちばん末っ子が女の子で、あとはすべて男の子です。私の想像ですが、女の子が一人ほしくて、五人兄弟(妹)になったのではないかと思っております。
兄弟すべて、すでに二十歳を過ぎて、それぞれの仕事を持っているわけですが、三男の弟は、自閉症という障害を持っておりまして、諫早の授産施設に入っております。私も何回かしかそちらに伺ったことがないので、詳しいことは知らないのですが、軽い作業を通して、お小遣い程度の給料をもらい、生活しているのだそうです。
両親が弟の障害に気がついたのは、弟が3歳くらいのときだったと思います。人並みに言葉を話さないので、おかしいなぁと思って医者に相談したところ、自閉症であることが分かりました。
それまでにも、変だなぁと思うことはあったのでしょうが、体そのものの障害ではありませんので、なかなか医者に相談することもなかったのだと思います。医者の診断を聞いたとき、母親はきっと頭のなかが真っ白になったのではないかと思います。

自閉症というのは、読んで字のごとく、自らの殻に閉じこもって、外部との連絡を閉ざしてしまう症状です。いっしょにいるとすぐに分かるのですが、一人遊びはしても、誰かといっしょに、あるいはみんなといっしょに遊ぶことはありません。話しかけられても返事をするでもなし、ましてや自分から人に話しかけることもありません。
それからの生活は、本当に考えられないくらいの苦労の連続だったと思います。子供の私たちが知る由もありませんが、言葉では言い尽くせない苦労をなめたのでしょう。もう少しあとで話しますが、一度は生きていくことすら諦めたと言います。
最初の頃は、保育所に預けるのも気が引けたようで、先生方が「心配しなくてもいいですよ」と声をかけていたことを覚えています。小学校にあがっても、いっこうに治る気配はありませんでした。その間も、少しでも自閉症に効果があると聞くと、病院を廻り、先生を探しして、走り回っていたようです。

中学校はけっきょく大村の施設に預けられました。子供の頃の私は、母親が弟を連れて大村まで行ったり来たりするのを、あまりよく思っておりませんでした。すでに当時は私も神学校に入っていたわけですが、自分のことは棚に上げて、弟がずいぶん迷惑をかけている、そんなふうに思っていました。
生活に余裕があったわけでもなく、大村まで年に何回も往復するたびに、旅費がかさみます。学期の始まり、夏休みや冬休み、運動会、遠足、さまざまな理由で母は大村に出向かなければなりません。そのころから、私の心の中には、少しずつですが、「許せない」というような気持ちが芽生えていたような気がします。
弟が中学校に入る頃から、さらに私のなかでの不満は高まっていきました。中学生にもなると、たいていの両親は子供にカセットくらいは買ってあげるのだと思いますが、弟もその例に漏れず、小さなカセットを買い与えてもらいました。弟はそれをいたく喜んで、大切に使っておりました。
自閉症の子供に共通する症状だと思いますが、まわりがどうであれ、自分がこうと決めたとおりにならないと、気が済みません。弟には気に入ったラジオ番組があって、それを欠かさず聞いていたのですが、障子のふすまで仕切られた隣の部屋で、自分の好きなラジオ番組を熱心に聞いています。それも、大音量です。
私も神学校に入っていましたから、夏休み・冬休みに帰ると、宿題があったり、自分なりの勉強をしたりします。私が何をしていようが、弟はお構いなしです。決まった時間、決まったラジオ番組を、大音量でかけ続けています。

最初は、「まぁ、仕方ないか」と思っていたのですが、ことはそう簡単ではありません。たとえば午前10時にその番組があるとすると、その少し前から、カセットの機械に向かって独り言を言い始めるんです。「さあ、もうすぐ10時だから、番組が始まるぞ」「始まった!始まった!わーい!」これが毎日、雨の日も晴れの日も続くわけです。
さすがに私も辛抱できなくなりまして、「おい、ちっとラジオを小さくしてくれんかなぁ」と弟に言ったところ、弟は私の顔をちらっと見たあと、顔色を変えてラジオに話しかけます。「おい、ちっとラジオを小さくしてくれんかなぁ。うるさいじゃないか!」自分が叱られたのだと気にはしているんですが、それに極端に反応してしまうのです。情緒のコントロールもままならない、そういう面もありました。
「あー、悪かったなぁ」そう思いたいのですが、ラジオ番組が終われば、今度は自分のお気に入りの音楽のカセットが鳴り続けます。こうして一日中、お気に入りのラジオ番組と、好きな音楽のテープが鳴り響きます。
まぁ、そこまでだったら、自分たちが我慢すればいい。そう思っていました。でもある時、私の怒りが爆発しました。弟は、それまでの施設での訓練の結果、食事もきっちり決まった時間でないと食べないのですが、たまたま、牛の世話で夕食の準備が遅れてしまい、7時に食べるはずの夕食が、7時半になってしまいました。
「ごめんね、遅くなって」母親が、わが子に謝っています。すると弟が大声で、こう言い出したんです。「ぼくは、夕御飯は7時だもんな。もう7時半だから、食べられないもんな」決まった時間に、決まったとおりにならないと、情緒不安定になるのです。
これには頭に来ました。「なんて、お前は!のぼすんなよ!」もう自分で何を言っているのかも分かりません。緊張の糸がぷっつり切れて、私も声を荒げてしまいました。
「7時と言ったら、7時だもん」。
そう言ったっきり、弟は大声で泣き出して、けっきょくその日の晩は食べませんでした。母は私の言いたいことも分かるし、弟がそういうふうにしか生きられないことも、知っていますので、二人の子供の間で板挟みになって困っていました。私はこのとき確かに、弟を許せないと思っていました。そして、それはいつまでも続きました。

義務教育の年限が過ぎても、弟はさらに年上の人たちが共同生活する施設に移ります。ここでは、教育するのではなく、生活を支援するわけですから、最低限決められた規則のほかは、自分の生活スタイルが守られることになります。弟の場合は、さらに自分の生活に固執することになります。
このころには、体もとんでもなく大きくなっていたのですが、家に帰ると、相変わらずラジオとカセットに向き合う毎日です。私も大神学校に入り、あるいは司祭になって、家に帰ったときくらい、田舎の空気に触れたいと思っているわけですが、そんなささやかな願いも、大音量のカセットに見事に砕かれます。私もけっきょく、ときおり喧嘩をして弟を傷つけ、弟はそのたびに大声を出して自分を責め、お互いに傷つくのでした。
「ある程度の年齢になったのだから、いくらなんでも分かるはずだ」。どうしても、そういうふうに自分の立場で考えてしまうんです。

今現在、弟は27か28だと思います。両親はまだ60代で若いのかもしれませんが、やはりそれなりに心配していると思います。自分たちが先に逝ってしまったら、弟はどうなるのだろうか。私自身も、司祭になって、弟のことをあまり本気になって考えたわけではありません。どうなるのだろうと、ぼんやり考えるだけです。
父は若い頃、弟の病気は、たとえばスパルタ教育だとか、そういうもので治るのだと思った時期もあったようです。そのころはまだ漁師をしていたと思いますが、家に帰ってきては、「こっちを見て、父ちゃんの話ば聞かんか」「何べん言えばわかっとか!」こんな怒鳴り声が聞こえていました。素人の考えと言えばそれまでですが、父も一生懸命だったのでしょう。私もそれらいろんなことで、弟に対して一度もいい思いをもったことはありませんでした。
一度、母がこんなことを言ったことがあります。父親が厳しくしつけようとしていた頃、不憫になって、いっそのこと海に飛び込んで、この苦しみから逃れたい、そう思ったこともあったと。私はそれを聞いて恐ろしくなった反面、今でも何も知らずに、自分の決めた時間割を、毎日せっせとこなして日々を過ごす弟が、どうしても許せなかったのです。

みなさんには、次のような体験はないでしょうか。頭では分かっているけれども、気持ちでどうしても許してあげられないということです。本当に気持ちよく許してあげたほうが、自分の心の健康のためにもいいんだけれども、うまく気持ちを切り替えることができない、そういったことです。
私は、正直なところ今でも、弟に対して心から温かく接してあげられません。頭では分かっているのですが、何年も、あるいは十何年も根に持っていたことを、あっさり忘れることは、思うほどやさしくないのです。
こういうとき、本当に、赦しは人間の力だけではないと感じます。赦しの秘跡を前に、改めて考えるのですが、赦しは神の恵みと言わざるを得ません。両親は、弟をわが子と思って、今すべてを受け入れていますが、兄の私は、弟を本当に赦しているとは言い難いのです。
聖書に、「放蕩息子のたとえ」の話があります。恥ずかしながら、私は今回の黙想会で、この赦しの秘跡のための話を考えるまで、「放蕩息子のたとえ」を、私と三男の弟との間に当てはめて考えたことはありませんでした。

今までなぜ気づかなかったのか、分かりません。目の前にある問題で、自分がちょうどたとえ話の兄に当てはまっているのに、今までどこを見ていたんだろうか。どうしてこんな身近な例に、目をつむって生きてきたんだろうか。すごく反省させられました。
これは、言ってみれば私のみなさんへの告白です。みなさんは、これから神に、自分の罪を告白します。いろいろ言いにくいと思っているかもしれませんが、できれば、包み隠さず、告白してほしいと思います。包み隠さず告白するのは、神様への愛の証です。愛する人にしか、私たちはすべてを明け渡すことはできません。神を愛する証として、一度、すべてを明け渡してみてはいかがでしょうか。
参考までに、ルカ福音書15章の、「放蕩息子のたとえ」を朗読して、静かに赦しの秘跡にはいることにいたしましょう。罪を赦してくださる神が、愛情深い父として、心の底から思えるようになったら、どうぞ赦しの秘跡においでください。


また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」


告白場に、慌てて走り込まなくても結構です。いまから罪を言い表す私たちの神が、私にとって愛情深い父と感じられるようになってからおいでください。私の告白を聞き、すべて赦してくださり、慰め、励ましてくださる。そう思えるようになるまで、少し時間をおいて待ってください。
順番がどうこうとか、あまり気になさらないでください。大切なことは、うそを言いました、悪口を言いましたと、形ばかりの告白をすることではなくて、「神様、私は、どうしてもあなたのあわれみが必要なのです。あなたが放蕩息子に対して示してくださった、あのやさしさが必要なのです」と、心から思えるようになることです。この痛悔が本物でなければ、告白はいつまでたっても形ばかりのものになります。
私も、全能の神と、兄弟であるみなさんに、なるだけ正直に弟のことを告白しました。みなさんも、これを機会に、きちんと今までの自分を神様の前に明け渡してほしいと思います。

 大きな、恵み深い赦しのひとときとなることができますように。