第三回:イエスそのものが福音

今年の黙想会の準備に入るとき、私の頭に最初に浮かんだことは、イエス様が33歳でお亡くなりになった、救いのみ業を成し遂げられたということです。たとえばみなさんを黙想会でキューッと絞るとか、生活の中に信仰が深く根付くことを願って準備に入ったとか、そういうことでなくて申し訳ありません。
なぜ33年の御生涯が真っ先に浮かんだか。すごく単純です。私もあと数日したら、33歳になるからです。すごく分かりやすいでしょ。
ただ、数字の共通点を見つけただけで喜んでいるのでは、子供にも笑われますから、福音書が描く33歳までのイエス様の姿から、自分にも、みなさんにも力となるイエス様を描き出してみたいと思います。
2月の半ば頃からでしょうか、司祭が毎日唱える教会の祈りという日課を、以前買い求めていた英語の祈りに切り替えました。英語は私のいちばん好きな分野なんですが、ちょうど今回の黙想のヒントになる箇所に行き当たりました。みじかい祈りですから、そのまま英語を読んで、続けて日本語で言い直します。

Let us give glory to Christ the Lord, who became our teacher and example and our brother. Let us pray to him, saying:
Lord, fill your people with your life.
Lord Jesus, you became like us in all things but sin, teach us how to share with others their joy and sorrow, that our love may grow deeper every day.
Lord, fill your people with your life.

私たちの教師、模範、そして兄弟となってくださった主である神に栄光を帰しましょう。「主よ、あなたの民をあなたのいのちで満たしてください」と祈りましょう。
主イエス、あなたは罪のほかは私たちとすべての点で同じものとなられました。私たちが人々と喜び、悲しみを分かち合い、日々、私たちの愛を深めていくことができますように。
「主よ、あなたの民をあなたのいのちで満たしてください」

これは共同祈願の一節なのですが、いちばん私の目に留まったのは、繰り返しの祈り「主よ、あなたの民をあなたのいのちで満たしてください」というところです。33歳でみ業を完成されたあのイエス様の生涯を、心の底から願っているという感じが良く出ています。この祈りから、いくつか感じ取ったことを紹介したいと思います。

1. 満たされない私たち満たすイエスのいのち
2. イエスのいのちは、めぐみに満ちあふれている
3. とりなしの祈りは、人を他者へと向かわせる
4. イエスのいのちは、人を宣教者に変えていく

今の社会は、食べ物にも、着るものにも、知りたいという欲求にも、ほとんどすべてが溢れかえっています。そしてどうかすると、これらの洪水に押し流されたり、途方に暮れたりするわけです。
私もようやく二十年以上前のことが話せるとしになりまして、「昔は」という言葉を使えるようになりました。小学生の頃の思い出が、ちょうど二十年以上前の話になります。このころの食事というと、一つ何か中心になるおかずがあって、それを争って食べるというのが当たり前の光景だったように思います。
それが、今では食べ物は溢れかえっておりまして、どの一品をとっても、立派なおかずが並び、華やかですが、これが逆に、何を食べたか覚えていないというようなことになったりもします。
ごちそうが出るのはいいんですよ。いいんですが、それがいっとき続くと、もう何を食べても満足できなくなる。これは、食べ物が溢れかえっていると典型的な例です。

着るもの。私の例ですが、たとえば霊名のお祝い、お中元、お歳暮、こうしたおりに、肌着一ついただいたとしても、十人の方から一枚ずついただいたら、年に三十枚ということになります。それでも、いただき物は喜んで受け取るわけで、もしその教会に五年いれば、何と百五十枚のシャツをいただくことになります。
いざ転勤というときに、衣類を詰めていて驚きました。お祝いの包み紙のまま、タンスにしまっていたシャツや靴下がたくさん出てきたんです。みなさん年間にシャツを三十枚も使いますか?たぶん使わないと思います。それだけ、ものが溢れかえっているということです。
知識欲についてはどうでしょうか。たいていのご家庭では、新聞とテレビは毎日ご覧になっていると思います。本来新聞を綿密に読めば、ワイドショー以外のニュースは、ほとんど知ることができるはずなんですが、それでも、テレビもかなりの時間流している。それも、どのチャンネルを見ても、似たようなニュースなのに、あれもこれも見ている。こうして、大量の情報の中で、私たちはもしかしたら溺れているのかもしれません。
物にしろ、ニュースにしろ、どれを取っても、溢れかえっている中で、満足しているかと聞かれたら、満足していると言えるでしょうか。物が有り余るほどあっても、ほとんど満たされていないというのが現状なのではないでしょうか。
そうです。どんなに物が溢れていても、世界の果てのニュースまで知ったとしても、満たされない何かがあるのです。それで、教会はこう祈るのです。「主よ、あなたの民をあなたのいのちで満たしてください」。この世の物がいくら溢れかえっていても、満足できないことで分かったように、私の心は、見えるこの世のものではいっぱいにならないのです。

では、イエス様の生き方・考え方は、私たちの満たされない心を満たすのでしょうか。答えは当然「イエス」です。イエス様がこの世に残してくださった33年の生活は、満たされない私の心を、すっかり満たしてくださるのです。
念のため、反対意見を考えてから、先に進みましょう。私は、目に見えるこの世のもので、もうすでに満たされている。だから、イエス様の教えも生き方も要らないという人が仮にいるとしましょう。
そのような人に私は一つのことで呼びかけたいのですが、たとえば私の生活からすべての音を取り去って、沈黙の時間を作ったらどうなるでしょうか。試しに今から、たった三分間だけですが、沈黙の時間を作ってみましょう。この沈黙の時間を、私たちは満たすことができるのでしょうか。

(三分間)

今ちょうど三分です。どうでしたか。私たちがふだん見たり聞いたりしていることを思い浮かべて、今の三分間を満たすことができたでしょうか。
たいていの人が、できなかったんじゃないかと思います。時間は過ぎましたが、苛立ちや、焦りや、むなしく時間が過ぎたという感じを持ったのではないでしょうか。やはり、この世のものでは埋まらない部分が、私の心の中にはあるのです。
すべての音を追い出してみて分かったと思いますが、たとえばこの沈黙の場所はとても神聖な場所で、この世のものでは到底埋まらないほど尊い場所なのです。そして、この場所を満たすことができるのは、ただ一人、イエス様だけなのです。
もうこれ以上、反対意見に耳を傾ける必要はないでしょう。今私たちは、一人残らず、この世の見えるあれこれでは、何かが満たされない、満足できないと知っています。その何かを、これからイエス様に満たしていただくことにいたしましょう。

反対意見を考えるときに、「沈黙」ということに触れましたので、これからイエス様の受難の場面を通して、満たされない私を満たす「イエスのいのちの豊かさ」に迫っていきましょう。
なぜイエス様の受難の場面を取り上げたかと言いますと、この場面がいちばん私たちの心を打つからです。私たちに当てはめて考えてほしいのですが、私たちは最後の瞬間が来たと悟ったとき、絶対にウソやごまかしをしたりはしないものです。今さら何を取りつくろっても間に合わないからです。そういう意味で、最後の場面に何を話し、どう振る舞ったかは、一つ残らず意味があります。ですから、イエス様の最後の場面が、いちばんふさわしいと考えました。
参考までに、イエス様が十字架に張り付けにされてから、何回口を開いたか調べてみました。マタイ、マルコ福音書は二回、ルカが三回、ヨハネが一番多くて四回です。さまざまにののしり、侮辱する群衆には決して口を開かず、沈黙しています。イエス様の十字架上での沈黙の時間、ルカによると正午から午後三時までの三時間、そのほとんどのあいだ沈黙を守っておられたのですが、そのあいだ何がイエス様の心を満たしておられたのでしょうか。

│ │ │父よ、彼らをお赦しください。自│婦人よ、御覧なさい。あなた│
│ │ │分が何をしているのか知らないの│の子です │
│ │ │です │ │
│わが神、わが神、なぜわたしを│わが神、わが神、なぜわたしをお│はっきり言っておく。あなたは今│見なさい。あなたの母です│
│お見捨てになったのですか│見捨てになったのですか│日わたしと一緒に楽園にいる│ │
│大声でイエスは叫ぶ│大声でイエスは叫ぶ│父よ、わたしの霊を御手にゆだね│渇く │
│ │ │ます │ │
│ │ │ │成し遂げられた│

私たちが三分間の沈黙を作ったとき、「早く終わってほしい」とか、「時間がもったいない」とか、満たされないいろんな思いが心の中を駆けめぐっていたと思います。そうであれば、イエス様の三時間の沈黙は、どれほどであったでしょうか。
最後の最後までご自分を理解せず、ののしりを浴びせる群衆に、言い聞かせてやりたいとか、その場を逃げ去った弟子たちを問いつめてやりたいとか、いろんな思いがあったのではないか。そんなことを私などは考えるのですが、実際はイエス様の心は満たされていたのだと思います。あのはげしい非難と罵声の中で、イエス様の心にある沈黙の部屋は、御父への信頼の心で満たされていたのです。
聖書の朗読を通して、十字架に張り付けにされたイエス様の沈黙を、私たちの心に満たしましょう。ルカ福音書の23章です。


「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。


三度、イエス様は口を開かれました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」
それらを簡単な言葉でまとめると、「赦しを願う言葉」「祝福を与える言葉」「御父への信頼の言葉」ということになるでしょう。いずれも、イエス様がすでに御父への信頼に満たされて、平安を保っていなければ決して出てこない言葉です。不満やいらだちの中で心が満たされていなければ、このような恵みに満ちた言葉を口にすることはできません。
イエス様とて、言いたいことは山ほどあったでしょう。けれども、不満とやるせない気持ちのままでは、いくら反論しても満たされないことを知っていたのです。むしろ、御父がご自分の最後を見守っておられる、沈黙している、その心の奥底まで御父は十分知っておられる。このような満足感が、イエス様の心に満ちあふれていたのです。
私たちが、たくさんの物に囲まれても満たされない心の奥は、イエス様の模範に従うことで満たされていきます。どれだけ持っても、さらに持ちたがる、どれだけ世の中の出来事を知っても飽き足らない。私の心の奥底は、やはり、神への信頼でなければ埋まらないのです。そのことをはっきり悟って、生活を立て直さなければ、いつになっても私の心にあいた穴は埋めることができないのです。

さて、私の満たされない心は、イエスが御父への信頼に満たされていたように、イエスの信頼に満たされたときに安らぎました。この落ち着き、平安は、私一人に与えられたものでしょうか。
もちろん、そうではありません。イエス様は、私一人が満たされ、救われることを願っているのではありません。私が満たされたなら、それが溢れ出て、周りの人へ向かうことを期待しています。
鍵となるのは、「私たち」という感覚です。いちばん身近な例で、「主の祈り」の一節を考えてみましょう。「われらの日用の糧を、今日われらに与え給え」というところです。
この祈りについては、新聞「せいトマス」の中である程度触れていますが、ここでは、祈りを通して私の心を周りの人へ向けていくヒントを紹介したいと思います。
「われらの日用の糧を」と祈ります。私たちとは、まず私の家族、私の親戚、友人のことでしょう。私たちがいつも近くで出会っている人に必要なものを、今日必要なものは今日与えてくださるようにと祈ります。神は私たちの必要にすぐに答えてくださいます。
加えて、「私たち」と唱えるとき、今日はじめて出会う人のことも祈ってみてはいかがでしょうか。買い物に出かけた、ふだん見かけない人と会った。できればその人のことも、一日の終わりにでも祈ってあげてはいかがでしょうか。
その人は信者でないかもしれません。もう二度と会わない人かもしれません。それでも、あなたが祈ってあげたら、イエス様は答えてくださいます。二度と会わないとしたら、私が祈ってあげないと、二度とその人のためにイエス様に祈ってあげる人はいないかもしれません。そういう意味では、私の祈りはすばらしい力になると思います。そして、このような愛のこもった祈りは、この世のものでは満たされない心の奥をきっと満たしてくださることでしょう。
また、「今日われらに与え給え」と祈ります。これは、もちろん願いの祈りですが、もう少し考えると、同じ祈りが、私を宣教へと向かわせる力に変わっていきます。
もしかしたら、「私たち」の中で思い描いているあの人に必要なものを与えるのは、私を通してなのかもしれません。もしそうだとしたら、「今日われらに与え給え」と祈りながら、次のようなことにも思いが及ぶでしょう。

「主よ、あなたが今日必要なものを与えてくださることは、もう十分信頼しております。ですが、もし、その必要なものを私を通して与えようとしておられるのでしたら、どうぞ私を使ってください」。

「私たち」という感覚を研ぎ澄まして主の祈りを唱えるとき、こんなに豊かな祈り方へと私たちは導かれていきます。最初は、私一人のために願っていたかもしれません。それが、すぐ身の回りにいる「私たち」のためにも祈れるようになりました。
また、今日はじめて出会った人のことも思い出して、「われらの日用の糧を、今日われらに与え給え」と祈れることも学びました。そして最後に、イエス様がご自分のいのちを与えて満たしてくださるのは、もしかしたら私を通してかもしれない、だったら、私を使ってくださいと願う、宣教者の姿も考えてみました。

イエス様の33年の御生涯。十字架の場面一つしか取り上げることができませんでしたが、また、いつか別の機会に、今回の話を深めることができたらと思います。
奇跡を行い、権威ある言葉で学者たちの口を封じ、ときには涙を流すイエス様など、本当に生き生きとした姿を通して、私の心がいっぱいに満たされる場面はまだまだたくさんあるからです。
最後に、パウロのフィリピの信徒への手紙から、イエス様だけが私の満たされない心を満たしてくださることを確認して終わりましょう。私だけでなく、ひとりでも多くの人が、イエスのいのちに満たされることを願いながら、みことばに耳を傾けましょう。第3章の1節です。


「私にとって有利であったこのような事柄を、キリストのゆえに損失と思うようになりました。それどころか、私は、私の主キリスト・イエスを知ることのすばらしさのゆえにすべてを失いました。しかし、それらのことなどは屑に過ぎなかったと思っています。それはキリストを得るためであり、私がキリストに結ばれたものとして認められるためです。これは、私が律法を守り自分を正しいとするからではなく、キリストを信じることによって、つまり、その信仰のゆえに、神によって正しいとされることによるのです」

「私にとって有利であったこのような事柄を、キリストのゆえに損失と思うようになりました。それどころか、私は、私の主キリスト・イエスを知ることのすばらしさのゆえにすべてを失いました。しかし、それらのことなどは屑に過ぎなかったと思っています。それはキリストを得るためであり、私がキリストに結ばれたものとして認められるためです。これは、私が律法を守り自分を正しいとするからではなく、キリストを信じることによって、つまり、その信仰のゆえに、神によって正しいとされることによるのです」(フランシスコ会訳)