第一回:神のいのちにあずかる

黙想会が始まりました。この三日間に、三つのテーマを取り上げたいと思います。一日目は、神との親しさについて、二日目は喜びの知らせと言われる福音そのものについて、三日目は福音宣教者についてです。
一日目の最初の話として、わたしは少々コワーイ話を用意しました。つい最近のことですが、わたしが太田尾から間瀬に車で移動しているときのことです。イズミソーイングの所から右に曲がって、司祭館に向かう細い道に入るところでした。今から入ろうとする細い道には、すでに軽自動車が止まっていたのですが、わたしが車の速度を落として曲がろうとしたときに、横で待っていた車が飛び出したのです。
ふだんはそんなに大声を出さないのですが、このときばかりは頭に来まして、「バカが、死ぬってしたやっか!」と怒鳴りました。どうも横道で待っていた車はわたしが右に曲がる合図を出していたのに気づかず、そのまままっすぐ通り過ぎるのだと思っていたのかもしれません。まっすぐ通り過ぎたつもりで車を前に出してきたのです。
幸い車をぶつけられることもなく、私のいのちも無事でしたが、あとで考えたことは、「こがんことで死なんばとやろうか」ということでした。もしあのときまともに当たっていたら、たとえば腰の骨を折られて、車椅子の生活になっていたかもしれません。危ないなーと思いました。

結局なんともなかったので、今こうして皆さんの前にいるわけですが、私のいのちと思っているのに、これほどあてにならないという体験から、お話を進めたいと思います。
あまり、こういうことは考えたことがないかもしれませんが、みなさんは、今日お休みになって、明日も今日と同じように目が覚める、一日が始まると思ってますか?それとも、「いやー、明日のことは、誰にも分からない」とお思いでしょうか。
たとえ、「明日のことは分からない」と思っていても、何となく明日がやってくることを、当てにしているんですよね。まぁ、明日一日くらいは大丈夫だろうと思っています。どうしてでしょうか。
「あまり無茶をしたりしないし、今これといって特別に大病をしているわけでもないので」と言うかもしれません。「ふつうに健康に注意している」ことは、明日がやってくる保証に、いくらかでもなるのでしょうか。
別の人は、「わたしは以前大病をしたので(大手術でもかまいませんが)、今では健康に十分注意している」と言うかもしれません。「十分に注意」すれば、本当に明日はやって来るのでしょうか。こう言いながら、いったい私たちは何を当てにして、明日がやってくると思っているのでしょうか。
ここら辺で、何か気がついた方もおられると思いますが、まだ、思い至らない人のほうが多いかもしれません。ここからはだんだん怖くなってきます。別に幽霊の話や、不思議な体験は要りません。わたしが生きていることを深く考えると、怖くなるか、ありがたいと思うか、どちらかに向かうのです。

「この神父様は、へんなことを聞くなぁ」と思っている方は、まだ私が期待していることに気づいていません。みなさんこうして集まって、黙想会にあずかっておられる。感心だなぁと思います。今例外なく、みなさん息を吸って、吐いて、心臓は絶えず動いて、からだの隅々まで血が通っています。明日も、またみなさんはここに集まると思います。たぶん、明日もここにいるだろうと、ぼんやりとではありますが、考えています。何か、当てがあるのでしょうか。何かの保証があるのでしょうか。
「明日のことは、誰にも分からない」そう思っている人もいます。私もそう思いますが、でも、どこかで、当てにしているのです。何かの保証があって、そう思っているのです。今日は、それをはっきりさせましょう。ただぼんやり当てにするのではなくて、白黒はっきりつけましょう。
心を落ち着けると、私が息を吸ったり吐いたりしていることを意識できるようになります。もしかしたら、心臓の動きや、全身に血が流れていることも想像できるようになるかもしれません。こうして私の体は保たれているのですが、だからといって、そのことを四六時中考えることはできません。「さあ私の心臓よ、今の調子で今日一日がんばってくれよ。私の呼吸器よ、よくがんばっているね。その調子だぞ」。たまにはこんなことを考えてもいいですが、一日中こんなことばかり呟いていたら、きっとそのうちに気が変になってしまうでしょう。
休むときはどうでしょう。みなさんが一日のすべてのことを終えて床につくとき、「さあ心臓よ、私は今から寝るから、おまえは休まずに仕事をしてくれ、私の呼吸器よ、一瞬たりとも休んではいけないよ。酸素が一瞬途絶えただけで、私の脳は機能障害を起こすんだからね」こんな声をかけるのでしょうか。

「ばかばかしい、そんなこと誰が言いますか、休んでいるときも心臓が動くのは、当たり前のことでしょう」。本当にそうですか?当たり前と思っていたのに、ある人は朝目を覚ましません。冷たくなっています。いつ心臓が止まったのかも分からず、この世からあの世に移っていきます。当たり前と思っている私の体の働きを当てにしていたら、いずれは同じ目に遭うでしょう。
三十分に一人が亡くなっているこの日本で、私は幸運にも今日目を覚ましました。当たり前と思っているすばらしい体のつくりに信頼をおいて、昨晩はぐっすり寝ました。今日はすがすがしい目覚めでした。でも、同じことを思っていたあの人は、同じことを当てにしていたのに、目を覚まさなかったのです。
今まで話したことは、何も特別なことを話したわけではありません。明日がやってくる、明日も目を覚ますのは、私たちがふつうに当てにしていることです。きっと、何かを保証に、明日を当てにしているのですが、それをはっきりさせましょうという話でした。自分の健康や、規則正しい生活を当てにしても結構ですが、同じことを当てにした別の人には、明日がやってこなかったのです。自分に信頼するだけで、本当に大丈夫ですか?
もう、答えを言ってもいいでしょう。明日を迎えるために、私たちが何となく期待しているのは、神の働き、神のみ摂理なのです。自分の健康を喜んで結構です。規則正しい生活に自信を持っていいんです。でも、こうした私の生活を絶えず見守っておられるのは、他でもない、私たちの神なのです。
今まで考えてきたことを、聖書を通して今度は積極的に受けとめ直してみましょう。ルカ福音書の中から、イエス様のたとえ話を一つ紹介します。


イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。


たとえ話の中で金持ちが登場しますが、この金持ちが蓄えたものを健康と置き換えると、ぴったり当てはまります。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの健康を蓄えたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」。自分の健康を、明日への保証にする人の報いはこうです。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した健康は、いったいだれのものになるのか」。イエス様はこうも仰います。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。
ここで終わってしまったら、今までの「コワーイ話」の続きで終わってしまいます。イエス様はその先で、もっと積極的に出来事をとらえる目を養おうとしておられます。私たちはこの点こそ見逃してはなりません。イエス様はどこに目を向けるように仰っておられるでしょうか。
イエス様は見事にまとめておられます。「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」。何となく明日を当てにしていました。何を保証に、明日を当てにしているのか、自分でもはっきり口にして言えませんでしたが、今、はっきりと口に出して言えるようになりました。私たちは、「神の働き」「神のみ摂理」に保証をおいて、床につくのです。
神に信頼をおいて休むとき、神が保証し、責任を引き受けてくださいます。自分に信頼するなら、保証も自分で行い、責任も自分で引き受けなければなりません。ですが、いのちの保証と責任を引き受けるほど、私たちはたいした生き物なのでしょうか。
「いや、それでも自分に自信があるから、自分に信頼して生きる」。結構です。どうぞそうやって無茶をしてください。これからの話では、自分に信頼する生き方はもっと息苦しくなることでしょう。そんなスーパーマンになるよりも、もっと確実な神に信頼する人になったほうが、私はいいと思いますが。

意識するとしないとにかかわらず、私たちは神を当てにして、神のみ摂理を見えない保証として生きていることを確かめました。「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」というイエス様の言葉は、誰かよその人に向けた言葉ではなく、私に向けて話されていることを考えました。もう一歩踏み込んでみましょう。私は神によって生かされ、明日の保証を得ましたが、家族はどうでしょうか。となりで休んでいる自分の夫、妻は、何を保証にして静かに眠っているのでしょうか。
もしかしたら、となりで休む私の夫、妻は、自分を当てにして、休んでいるかもしれません。自分のことは自分で責任をとると思いつつ、今静かに寝ているのかもしれません。あなたは、どうしますか。
配偶者のことに触れたら、子供たちのことも当然考えてみる必要があります。今日一日、保育園ではしゃいできたこの子どもは、今すやすやと眠っている。明日も元気に保育園に行くぞ、そんなことを夢見て床についたかもしれません。この子は、いったい何を保証に、明日を期待しているのでしょうか。
もしかしたら、母親を保証人にしているのかもしれません。母親に抱かれ、安心してすやすや眠っているのかもしれません。そうなると、この幼い子供にとって、明日を手に入れる保証人はあなたです。あなたは、責任を持って、わが子に明日を保証してあげる必要があります。万が一でも、明日が来ないような事態にならないよう、目が覚めるまで、あなたは寝ずの番をしますか?この子が父親母親だけを保証に、明日を夢見ているのであれば、両親の責任は重大です。また、祖父母はどうですか、兄弟たちはどうでしょうか。
そんなこといろいろ考えていたら、いつか寝られなくなってしまうことでしょう。自分は、神に明日を託して休むことができるけれども、となりの夫、妻、子供は、今でも自分に信頼して明日を待っている。そうではないことを早く伝えて、皆が何らかの形で神に信頼して生きる人に変わるように、働きかけるべきです。子供が母親に信頼して休んだとしても、母親は明日を与える力など持ち合わせていないのです。
こうして、神に保証をおいて生きる家族作りが必要になってきます。夫婦の絆、親子の絆は、こうして確かなものとなります。なぜなら、夫が真剣に妻を愛しているのであれば、互いに明日を生きていたいと思うのであれば、神に明日を願う必要があります。親が子供になんでもしてあげたいと思っているのなら、子供の明日を神に願ってあげるはずです。そこまで思いやるのでなければ、「私は親として、精一杯やっている」なんてことは、言わないほうがましです。
神に明日を願う人は、明日の保証を得ます。神に明日を願わない人は、明日は要らないと言っているのと変わりません。すべての人が明日を当てにしていますが、明日を保証してくれるのは神以外にはおられないのです。

活動しているあいだ、わたしたちにはできない芸当がありました。「さあ心臓から送られた私の血よ、全身を生き巡り、酸素を送ってくれ、髪の毛ほどの血管が、ほんの一センチ詰まっただけで、人間は脳梗塞を起こしてしまうのだから。そうだ、そうだ。今の調子で、がんばれ!」人間には不可能でも、神にはできます。全能の神は、私たち一人ひとりを見守り、心臓の収縮から、呼吸の一つに至るまで、一瞬たりとも目を離さず、見てくださっておられるのです。
ここで学んで欲しいいくつかのことがあります。神は私のどの瞬間をとっても、私から離れずに見守っていてくださること、神はそれを、無償で、だれかれの例外なく与えてくださること、最後に、神は私たちが期待している明日を、与えることも、奪うこともお出来になるということです。
私から離れないことはすでに十分学びました。ここからは、無償で、例外なく与えてくださることを少し考えましょう。私たちは気心の知れた人や、印象のよい人には進んでよくしてあげますが、そうでない人にはなかなか気が向きません。神様はというと、神様は相手の態度に決して左右されません。善人であろうが、悪人であろうが、感謝を忘れない人にも、感謝しない人にも、平等に明日を用意してくださいます。
けれども、ここで甘えたり、誰かと比較したりすべきではありません。どうせ与えてくれるから、やっぱり祈らない。こういう人は、感謝を知らない人にも明日を用意してくださる神に、甘えているのです。幸運にも明日を与えていただいたことを忘れて、また自分に信頼し始めているのです。こういう人を、先の聖書は「愚か者」と言い切っています。
「あの人よりは、真面目に祈っている」「家族の中で祈っているのは、私だけだ」こんな思いに駆られる人もいらっしゃるでしょう。ここにも落とし穴があります。謙虚さを失っては、大切な信頼の祈りも色あせてしまいます。誰かと比較して自分の祈りを褒めるなら、私は、自分の努力にまた信頼し始めているのです。あくまで、神に明日の保証を願うことだけに心を向けるべきです。
また、私のほかは、誰も祈ってくれないとしましょう。でも、今日からは少し変わってくるかもしれません。自分の結婚相手も、同じ話を聞いているとすれば、話しかけることができます。「いっしょに、お祈りしよう」と。子供に対しても、いのちの大切さを、また違った見方で話して、祈りの輪に入ってもらうチャンスです。

心の迷いも吹っ切れたなら、祈りは単純で、力強いものになります。ここからが祈りは楽しいのではないでしょうか。「何で祈らんばいかんと」「あの人たちは祈りはしよらんやかね」こうした気持ちからも自由になった祈りは、まっすぐに神様に向かうので、祈っていても楽しいものです。こうなると、祈っているとき、神様に親しみを感じるようになるでしょう。神は一瞬一瞬に関わってくださって、私はささやかな祈りしかできないけれども、また、明日の保証をしてくださる。こんなやり取りの中で祈れるなら、もう充分です。あとは、ひとりでも多くの人が同じ祈りを捧げ、神との親しさを理解する人になるよう、地道に働きかけていきましょう。
自分を明日の保証にしている人があまりにも多いのです。姿・形はいろいろですが、神に信頼して明日を待ち望む人だけが、明日の保証を受けることを、もう一度確かめておきましょう。確かな保証を知ったのですから、これからは活動している今を、はっきり神に感謝できます。私はなぜ生きているのですか?それは、神がいのちを支えておられるから。誰にもはばかることなく、大胆に命の尊さを伝えることもできます。神が平等にいのちをお与えになることは、神の優しさを知った人には、最高の恵みと映るのです。
人間のどの一瞬にも離れず側にいてくださる神は、また、いのちを与え、それを奪うことのできる方でもあります。つまり、人間の生と死に全権を持っておられる方です。これは本当に神秘的です。人間は生きていることをなかば当たり前のように思い、少し黙想したところで、神に支えられ、神に生かされていることに気づきましたが、神の働きはそれだけに終わりません。神はこの世のいのちを取り上げられるのです。畑の豊作に小躍りしたあの金持ちへの宣告は、すべての人に例外なく下されるのです。「今夜、お前の命は取り上げられる」。
神がいのちを奪うといっても、驚かないでください。「いのちを奪う」というのは、私たちの方から考えてのことです。神は人間の魂を、もっと身近にお世話したいので、呼び戻されるのです。

私たちは公教要理で、人間には体と霊魂があることを教わりました。そして、肉体は衰え、朽ちていくけれども、霊魂は永遠に滅びないことも知っています。習ったことは、完全にものにしましょう。つまり、肉体は、限りあるこの地上に結ばれていますが、霊魂は永遠なのですから、地上にはつながれていないのです。むしろ霊魂は、永遠の世界、神の国にもともと結ばれているのです。だから、永遠に滅びない霊魂は、神によって永遠の世界に呼び戻されるのです。
霊魂が、神に呼び戻されないとしたら、それこそ一大事です。魂は限りあるこの地上に漂い、化けて出てくるということにもなりかねません。
もう少し踏み込んで考えてみましょう。神がいのちを与え、またいのちを呼び戻されるということは、私たちにとってどんな意味があるのでしょうか。「いつ呼ばれるか分からない」と、怯えて暮らさないといけないということでしょうか。
そうではないと思います。そうではなくて、私が生きている間も、私の体が朽ち果てたのちも、神は常に私に目を注いで、私を見守ってくださる。そう考えてほしいのです。
私たちは、今の生活で、さまざまの活動をしています。生活を支えるための活動、地域の中での活動、教会活動、果ては自分の趣味に至るまで、多種多様の活動をしています。そのどれもが、魂の抜けたような、機械的な活動はありません。魂の抜けたような仕事があるとすれば、それは人間の活動とは言えません。もしそのようなことに手を伸ばしているとしたら、迷うことなく離れるべきです。まず、そんなことはないでしょうが。
そして、これらすべての活動が、心の動きを伴った活動であるとしたら、そこには、神もとどまっておられます。神は魂の奥底に、常に働きかけているからです。何かを決めたり、思い巡らしたり、集中して事に当たろうとするとき、神はそこにおられるのです。
その際、二つの態度が考えられるでしょう。神がそこにおられることを、面倒くさいと思うか、ありがたいと思うかです。面倒くさいと思う人は、魂の奥底から神を追い出し、自分一人で悪戦苦闘することになります。ありがたいことだと思う人は、迷い、くじけそうになるときに、いつも神がそこにおられることに感謝し、勇気を奮い立たせることでしょう。あなたは、どちらを選びますか?
経済活動も含めて、すべての活動が、魂の活動を伴っているとしたら、私たちは神を抜きにして考えたり、行動することはあり得ないのです。神を追い出して行動する人は別として、私たちはいつもこのからだの奥底で、神と出会っているのです。

一回目の話をそろそろまとめることにしましょう。初めは、私の小さな体験から入りました。私がいくら注意していても、思わぬ事故に遭うこともあり、自分のいのちと思ってはいても、明日の保証はできないということでした。
そこから、私たちがごくごく当たり前と思っていることを、もう一度じっくり考えてみました。たぶん、明日も目が覚める、一日が始まることでしょう。いくらか当てにしていますが、保証はありません。保証があるとしたら、どういうことでしたか?それは、神が私のいのちを見守ってくださっているという保証でした。
私のいのちの保証は、神様が責任を持ってくださいました。私の家族はどうでしたか?神に頼らず、いまだに自分に頼った生活を、夫や妻、わが子、祖父母がしているとしたら、それは共に祈り、いのちの保証を確かめ合う方へと働きかける努力を始めなければなりません。特に幼い子供は、両親に全幅の信頼をおいています。父親、母親が、命が神に守られていることを教え、祈りを通して感謝することをしつけることは、何をおいても大切なつとめです。
神はいのちの始めから、わたしたちに目を注ぎ、たとえ体が滅びても、永遠にお世話してくださる方です。経済・政治・文化のすべての活動の中で、神はどの瞬間にも共にいてくださいます。魂の奥底で出会ってくださる神を、追い出すのではなく、常に喜ぶ人でありたいものです。
もう一度、先の聖書の言葉を聞いて、確認しましょう。神を追い出して経済活動をしたあの金持ちから、彼とは違う態度、これから取るべき新しい態度を、はっきりと描き出しましょう。すべての活動の中で、私たちは神に感謝することができるのです。


イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」


 あなたの心臓は、まだ動いていますか?では今のうちに、神と共に歩む生活に切り替えていきましょう。経済・政治・文化のすべての活動の中に、神が共におられることを信じ、新しい一歩を踏み出しましょう。地上では成功したのに、神から「愚か者」の印鑑を押されないために。