主日の福音 1999,12,26
聖家族(Lk 2:22-40)
昨日は長崎教区の司教座聖堂である浦上教会にて、島本大司教様の司式のもと、「大聖年開年の宣言」と、「開門式」が荘厳に執り行われました。おおよそ2500から3000人は詰め掛けていたでしょうか。たいへんな混みようで、久しぶりにあの大聖堂がいっぱいになるのをこの目で見てきました。
大聖年のミサを終えると、祈りのリレーのために、各ブロックごとに用意された「祈りの十字架」「バンナ」「祈りのローソク」が各ブロックの代表に手渡され、司教様の派遣の祈りのうちに送られていきました。私たち佐世保地区は、川棚→早岐→太田尾→天神、以下続いてまいりまして、私たちの小教区は修道院の担当期間も含めて2月13日から3月11日までを受け持つことになります。
あとで検討いたしますが、上に述べた期間、小教区として祈りの意向を掲げ、その意向に沿って小教区民全員で祈ることが求められていますので、この場を借りてご協力をお願いいたします。
さて、今週の日曜日は、「聖家族」をお祝いする日曜日になっています。イエス様を囲んで、マリア様とヨゼフ様、このつつましい家族の中から、私たちの家庭の模範を豊かにいただくことができるのです。今日はそのうち、老預言者シメオンの態度から、聖家族の中にある隠されているけれども汲み尽くせない恵みの源について考えてみることにいたしましょう。
今回は、老シメオンが「幼子を腕に抱いた」という点に注目したいと思います。シメオンは幼子を腕に抱いて、「神をたたえ」ました。また同じく、幼子を腕に抱いて、両親を祝福しました。今日の箇所を読んだ限りでは、幼子を両親に返して祝福を与えたという形跡は見られません。おそらくまだ腕に抱いていたのでしょう。
じつは、この「神をたたえる」と「祝福する」とは、もとの言葉は同じエウロゲオーというギリシア語なのだそうです。私は非常に興味深いと思いました。人間の取るべき態度は、神に対しては神を賛美することであり、人に対しては自分の持っているものを分け与えることと言って良いかと思いますが、シメオンは「幼子を腕に抱いた」その時、取るべき両方の態度を完全に実行したのです。
この点は見逃してはいけないと思います。人は、イエス様を自分の心の中に、また生活の中にお迎えするとき、神に対して取るべき態度と、人に対して取るべき態度をきちんと取れるようになる、そう言っているのではないでしょうか。
一人ひとり、あらためて考え直して見ましょう。私は、聖家族のように、イエス様を十分に生活の中にお迎えしていたでしょうか。一人の大人として、神と教会に対して取るべき態度をはっきりさせていなかったのではないか。また親としては、自分の子供に対して、取るべき態度をあいまいにしていたのではないだろうか。そうしたことは、じつは生活の中に、イエス様を十分に取り入れてなかったことから来ていたのではないだろうか。
また自分は、教会の招きにも、親の勧めにも、いいかげんな態度を取っていたけれども、それは、元をたどれば、イエス様のみことばを聞き流してきたために、こうなってしまったのではないだろうか。もっと真剣に、イエス様のみことばに耳を傾ければ、親に対して取るべき態度も、はっきりとできたのではないか。そんなことを自分自身に当てはめて、考えてみてほしいと思います。
こうして見ると、私たちは家族として取り組むべきことが一致して見えてきます。親にしても子にしても、救い主であるイエス様を徹底的に受け入れること、これが、聖家族の模範を私たちがいただく道だということです。都合のいいときだけとか、困ったときだけと言うのでは、私たちの取るべき態度は導きを得ることができないでしょう。
そうではなく、常に、どんな場面でもイエス様の導きを受け入れて、自分たちの取るべき態度を明らかにしていく。こうしたことの積み重ねで、私たちも聖家族に一歩ずつ近づいていくのだと思います。
シメオンは両親を祝福する祭、母マリア様には「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と断言しました。イエス様を徹底的にお迎えするからには、そのはっきりした取るべき態度のために、人間としてはつらい思いをすることもある、と念を押されたのです。それでも、マリア様はひるまなかったことでしょう。私たちも、しっかり心に留めておきたいものだと思います。
今日のミサの中で、さらにイエス様を自分たちの家族の中に具体的に受け入れる勇気と知恵を、一人ひとり願っていくことにいたしましょう。