主日の福音1999,12,25
主の降誕(早朝)(Lk 2:15-20)
羊飼いは幼子を見た 

主の御降誕、おめでとうございます。今日の福音で登場するのは、離れていった天使たちをのぞくと、羊飼いたち、マリアとヨセフ、まぁあえて言えば人々、と言うことになります。ほとんどは、羊飼いと、マリア様でこの場面は作られていると言っていいでしょう。

マリア様が、「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」とあるんですが、私も、昨日の夜半のミサのことを、一日寝ないで思い巡らしていました。マリア様の心に浮かんだことはよく分かりませんが、私の心に浮かんだのは、一つの感謝と、二つの手落ちです。

一つあった感謝のほうは、クリスマスのために、週二時間から三時間練習を積んだ「聖歌」のことです。最初の練習のときは、「こりゃどうなるとやろうか」本気でそう心配したのですが、やればできるもので、昨日の晩は自信を持って歌っておりました。中学生聖歌隊も、去年と今年で二年目になりましたが、なかなか、堂々としたものだったと思います。何よりも、聖歌を盛り上げてくださった皆さんに、心から感謝いたします。

問題は、二つの反省のことです。一つは、昨日お配りしたと思いますが、今私が手元に持っている「2000年大聖年の祈り」というやつです。昨日のお話しで、「大聖年がいよいよこの日から始まりました」と言ったのですが、今ここにある「大聖年の祈り」の後ろを見ると、但し書きが書いてあります。

「今年の聖夜から20001年1月6日までの大聖年の期間中、教会で、また個人的にとなえてください。島本要大司教」とあるじゃないですか。昨夜のミサが終わってこれを見たとき、もう私はぞっとしまして、どうやって取り戻せばよかろうかと、本当にあまり寝つきがよくなかったです。

もう一つ、これは私の意地悪な性格が災いしたんですが、皆さんに「年末年始のミサの時間は、新聞にも書いてあるし、私のところに電話しなさんなよ」と言ってましたよね。おかげで二本だけしか電話はなかったんですが、そのうちの一本は、私正直に謝らんといかんのです。

私は電話はしないように言ったとき、こんなことを考えていました。「こちらのミサにあずかる人は、みんな地元の人なんだから、ミサの時間くらい、みんなで助け合って教えてもらえばいいじゃないの。役員もいるんだし、私のしたいことはたいがい役員会でみんなに知らせてからやっているんだから、分からないことは役員さんたちにまず聞けば済むことでしょ。」

「だれがわざわざ、他所からやってきてこちらのミサにあずかるもんですか。子供たちが里帰りしてミサにあずかるって言っても、いったん家に寄ってから行くでしょ。だったら親に聞けばいいのよ。それ以外で、たとえば長崎の信者さんが、ぶらっと太田尾のクリスマスのミサに来ることなんて、あり得ない」まぁ大体こんなことを考えていたんです。

ところがいたんですよ。そんな人が。今日の聖書に登場した羊飼いたちのように、「さあベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」といった感じで、違う土地からこの太田尾のクリスマスを拝みに来た人たちがいたんです。

何で他所の人と分かるか。もうこの人たちは間違いようがありません。8月にいっしょに聖地巡礼に行った、浅子の青年と、相ノ浦の青年だったんです。

ミサの聖体拝領で二人の顔が近づいてきたとき、もう私は電話のやり取りを思い出してぞっとしました。「あのー、クリスマスのミサの時間は何時ですか」ほらほら、飛んで火に入る夏の虫。こいつはあれだけ言うたとに電話をかけてくるかい。

「太田尾と間瀬、どっち?」「太田尾です」「8時」「はい、どうも」「ガチャ」あー、しまった。あのたった一回の電話は、橋本君だったか。なんとも無愛想な電話の応対をしてしまってと、生きた心地はしませんでした。

それでかどうか知りませんけど、ミサが終わってから、「おーい橋本君、橋本くーん!」と叫んだんですけど、声はしませんでした。わざわざ浅子と相ノ浦から来てくれたのに、とうとう一言も交わさずに帰っちゃったみたいです。来年からは、丁寧に応対しよう、かなーとただいま思案中です。

みなさんも、昨夜のミサを振り返って、あるいは今日のミサのあとでも結構ですが、今年のクリスマスと言うことで、何かを思い巡らしてみたらよいかと思います。もうすでに私たちは、羊飼いたちと同じように「マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」わけですから、あとは、マリア様のように、自分たちにとって、今年のクリスマスはどんな恵みをもたらしてくれたのか、もたらしてくれるのか、よく思い巡らしましょう。きっとその振り返りの中で、神様は私たちに照らしと導きを豊かに与えてくださると思います。