主日の福音1999,12,24
主の降誕(夜半) (Lk 2:1-14)
救い主は幼子の姿で
主の御降誕、おめでとうございます。今日は、全世界が、イエス様の誕生の喜びにわく日です。「今日、あなたがたのために救い主が生まれた」。この言葉を、自分たちのこととして受けとめ、「今日この日を迎えることができて良かった」そう思える人は幸いです。

世界の歴史の中で、神様は一度だけ、「人間となる」ことをお望みになりました。楽しいことばかりとは言いきれないこの社会に、「それでも生きることには意味がある。それでもこの社会は生きる価値がある」それを伝えたくて、イエス様はやってきました。

もしかしたら、イエス様は突然大人の姿で現れることもできたかもしれません。けれども、あえて、幼子として、マリア様を通して生まれました。小さく、か弱い姿から出発して、少しずつ成長し、苦労して大人になっていく、そのすべてを私たちと一緒に味わってくださいました。

そうして、小学生にも、中学生にも、高校生にも社会人にも、苦労はあるけど、与えられたいのちに感謝して生きることは、意味がある、尊いということを伝えるために、すべて私たちと同じようになられたのです。

二千年前の出来事として、よくよく考えてみてください。今と事情はまったく違っていたはずです。乳幼児のころに、栄養失調で命を落とす危険がなかったとは言いきれません。誘拐や、交通事故はなかったでしょうが、病気その他で長生きできない可能性もあったのではないでしょうか。それだけではありません。二歳か三歳のころにイエス様は、当時の権力者、ヘロデ王から命を狙われたのです。

こんな、危険極まりない当時の事情の中で、イエス様はあえて、幼子から出発して「生きるすばらしさ」「命の尊さ」を伝えてくださいました。ですから今日は、誰もがイエス様の誕生を喜ぶと同時に、ひとりひとりが生かされていることに、まずもって感謝する日にしてほしいのです。

「私は生かされている。ときどき考えられないような困難に押しつぶされそうになるけど、生きていれば解決の道もある」「毎日がつまらないと思うこともあるけど、生きていれば神様はきっと何か新しいことを用意してくれる」そんな希望を、今日は新たにしてほしいのです。

さらに今日は、教皇様がお定めになった「大聖年」の始まりの日でもあります。この日、教皇ヨハネ・パウロ二世は、ローマの聖ペトロ大聖堂の「聖なる扉」を開き、すべての人に、イエス・キリストの救いの扉が開かれていることを示す儀式が行われます。

教会はこの「聖なる年」を、西暦1300年のボニファチウス8世のときから始めております。ほぼ50年ごとに祝われるこの「聖なる年」も、今年から来年にかけては、とくに新しい千年紀の始まりとして、特別に迎えようとしているわけです。

おもに三つのことが聖年の中で呼びかけられています。「霊的に刷新すること」「一人ひとりがキリストとより親しく出会うこと」「神を愛し、私たちが互いに愛し合うこと」この三つです。詳しいことはここではお話ししませんが、大聖年はイエス様を信じて集まる「教会」のあるところすべてで始まるのです。

もう一つ、私たちの小教区の喜びを皆さんと分け合いたいと思います。今年もまた、大人の方が洗礼を受ける運びとなりました。ちょうど一年前のこの日も、洗礼の喜びがありました。一人の方が、イエス様を信じて、新しく生まれ変わろうとしております。

今日のクリスマスに重ねて考えると、神様はいのちそのものでありながら、幼子の姿で生まれることを、もう一度生まれるということを計画されました。今日洗礼を望んでここに来られた洗礼志願者も、神様の恵みをいただいて生きる人に生まれ変わろうと望んでいます。もう一度生まれ変わろうと決心しておられるわけです。

おそらく今はもう緊張して心臓が飛び出しそうになっているかもしれません。私も緊張してひっくり返りそうですが、ここは一つ気合を入れ直して、先礼式に望みたいと思います

これから引き続き、洗礼式が執り行われますので、私たちも、今から紹介する洗礼志願者のために、諸聖人の取り次ぎ、神の豊かな祝福を願っていくことにいたしましょう。