主日の福音 1999,12,12
待降節第三主日(Jn1:6-8,19-28)
待降節も、三週目に入り、「待つ」時間と言うよりも、「迎える」時間と言ったほうが良い時期に入ってまいりました。もうすでに中学生などは、早々とクリスマス会を済ませまして、中学生らしいと言いましょうか、にぎやかに、派手にクリスマス会を楽しみました。

今日も、先週に引き続き、洗礼者ヨハネが登場して、私たちに呼びかけ、メッセージ伝えようとしています。しっかりと受け止めることにいたしましょう。

今日の、洗礼者ヨハネの話す言葉の中で、注意してほしいと私が考える言葉は、預言者イザヤの言葉を引いて語った「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」というところです。

「声」と言えば、もう巷では「天声」がおおばやりですね。大胆不敵にも、「わたしにしか天声は聞こえない」とぬかしておりますが、「せいトマス」新聞にも書きましたが、二千年前にイエス様とお会いした人たちは、誰でも天の声を生で聞いていたんです。ある意味で、彼らしか聞いていないのですが、本当にふざけた奴だと思います。

そう言いながらですね、わたしにも聞こえないかなぁと思ったりすることもあるんですよ。「みんなに『最高ですか』と聞いてみなさい」とか、「いっぺんあの人の足の裏を見てみなさい」なんて聞こえたら、私だって、「最高ですか」と言ったり、足裏を見てみたりするんですけどねぇ。

こう言う俗世間のくだらない「声」とは比較になりませんが、洗礼者ヨハネは、自分こそが「声」だと言っております。洗礼者ヨハネの言いたいことをしっかり受け止めるために、恐らくわたしたちは二つのことを考えないといけないかと思います。

ひとつは、「声」であるなら、その「声」を出した人がいるはずです。その「声の主」が「声」に責任を持っており、「声」に意味を持たせ、「声」を外に向かって響かせます。疑いもなく、その「声の主」とは、父なる神のことでしょう。救い主が間近に迫っているから、「主の道をまっすぐにせよ」と父なる神が「声」を出しているわけです。

最終的に、「父なる神」が、「声」の責任者ではありますが、洗礼者ヨハネがご自身を「声」それも「生きた声」としたわけですから、洗礼者ヨハネ自身、父なる神のお考え、意向に沿って活動し、人々を導く重大な責任を持っています。声が放たれたあとに、勝手に一人歩きし、あるいは、思いもしない「音」にすりかわってしまっては大変なことになるからです。

今日の福音を通して読むと、洗礼者ヨハネは明らかに「声の主」の意向を大切にして、無駄口は決して言わないという態度を貫いています。そうすると、「声」と「声の主」の結びつきは大丈夫なようです。

問題はもう一つの点です。「声」は、いったん外に出ると、何かにぶつからない限り、どこまでもまっすぐに響いていきます。ようするに声は、誰かがそれに耳を傾け、よく聞いて受け止めなければ、無駄に終わってしまうのです。

今日の福音書の中では、「祭司やレビ人」が聞き役でしたが、ちゃんと洗礼者ヨハネの声を受け止めたのでしょうか。私は、受け止めていないと思います。受け止めなかっただけでなく、彼ら祭司やレビ人のおかげで、まったく無駄になってしまった危険さえあります。なぜこんなことになってしまったのでしょうか。

ヨハネのもとに来た人々は、最初から、自分たちの知っている範囲でヨハネの言葉を理解しようとかかっていました。もっと言ったら、自分たちの気に入るような答えを言ってくれないと、聞き入れるつもりがなかったのです。こんな態度では、ヨハネの言葉は彼らの心にぶつかることなく、無駄に通りすぎてしまうのも無理はありません。聞く人が、本当に心を空っぽにして、自分の期待やあてずっぽうを脇において、まっすぐに聞こうとしないと、洗礼者ヨハネがいくら叫んでも無駄になるのです。

皆さん、皆さんも、他人事のように聞いていてはいけません。「イエス様の誕生を迎える準備を進めなさい」「主の道を整えよ」という言葉は、すでに放たれたのです。それは今年は、中田神父を通して放たれたかもしれませんが、これもまた「声の主」は「父なる神」であり、私は「声の主」の期待に精一杯応えるように、工夫をして伝えるわけですし、皆さんは皆さんで、イエス様をお迎えする心の準備を、真心込めて進めていくよう期待されているわけです。

身近に、あなたの暖かい手を必要としている人がいないでしょうか。病人、困難の中にある人、障害者、一人暮し、いろんなところに、イエス様を届けてあげる必要があります。あの、馬小屋に生まれてまわりに暖かさを届けたイエス様を、私たちが届けるのです。

最終的に、「声」はどこかに届いて、そこで響くとき、その目的を終えます。私たち一人ひとりが、しっかり「声」を受け止めることができるよう、ミサの中で恵みを願っていきましょう。