主日の福音 1999,12,05
待降節第二主日(Mk 1:1-8)
今週は、ぼんやりとですが、人間の一生は一度しかないんだなぁなんてことを考えていました。自分は、クリスマスをあと何回迎えるんだろうか、二十回だろうか、三十回だろうか、そんなことを考えていました。
それを考えていると、今週の福音で呼びかける洗礼者ヨハネの声が、うまく重なって聞こえました。「主の道を整えよ」。毎年、待降節がやってきて、毎年、クリスマスを迎える。毎年こうして準備をすることに、どれくらいの意味があるのだろうか。説教台に立つ司祭がこういうことを話すのは不謹慎なのかもしれませんが、結論として、「待降節を通して、クリスマスを迎えるのには意味がある」ということをあらためて確認することができました。
待降節を通して、主のご降誕を準備する意味は何でしょうか。一つの点を紹介いたしますが、それは、「最後に主にまみえるその時を準備するために、今の準備はある」ということです。
たとえば、私があと三十回クリスマスを迎えることができるとしましょう。それは、自動的に、あと三十一回、イエス様と出会うチャンスをいただいているということだと思います。一回増えているのは、最後にお会いする、天国でお会いするときのことです。
人間の記憶は、ある面であやふやなようですが、根本的には優れていると思います。お年寄りが、小さいときのことを鮮明に覚えているのは、その一つの例でしょう。お年寄りの方々は、昔のことを、今、目の前で起こっているかのように、はっきりと思い出すことができます。
それと同じように、私たちの魂は、肉体を離れると、過去の記憶を鮮明に思い出すのではないか、そう考えたのです。もし、はっきりと、細部まで鮮やかに思い出すのであれば、待降節にイエス様をお迎えする準備をどのように行ってきたか、毎年のことをそれぞれ細かく再現できるのではないでしょうか。
私たちは、どうかすると「若いうちは、信仰もほどほどに」とか、「年をとってから信仰しよう」なんて悠長なことを考えていますが、人間の記憶が驚くほど確かであるとすれば、いいかげんに過ごした時代のことも、また鮮明に思い出されるのではないかと思うのです。人生が一回限りなのであれば、いいかげんに過ごした時代のことは、「あのころは若かったなぁ」というほろ苦い思い出としてよりは、かなり苦々しいものに感じるのではないだろうか。そう考えると、今年の待降節のすごし方も、意味を持ってくる。そう感じるようになったのです。
実は、今週は福音書のことだけでこのようなことを考えたのではなかったのですが、「若いころの過ちは、いくらでも取り返せる」とつい考えてしまいますが、本当だろうか。取り返せないのではないか、記憶の中に鮮明に刻まれて、それはそれで悔いが残るのではないか、そんなことを考えていて、福音書のメッセージと重なっていったのです。
毎年、待降節がやってきて、今年いいかげんに過ごしても、マラ、いつかはふさわしい過ごし方に落ち着くだろう、そんなことを考えると、今年の待降節の意味は薄れてきますが、最後のときに、イエス様にお会いする。そのときに向けて、今年の待降節もあるのだ、そう考えると、やはり、その年その年の待降節は意味を失わないような気がします。
イエス様の誕生は、今年の私の成長にとって、欠かせない大切なものです。待降節の意味は?と問われたときに、私にとっての意味を見出せるだろうか、そんなことを今週の福音から黙想してみました。私にとっては、今年、主の道を整える意味は、「最後にお会いするときに、喜びの中でお会いできるためにも、今年の準備には意味がある」というものでした。
皆さんは、今年の待降節を、どのように意味付けていくのでしょうか。