主日の福音 1999,11,28
待降節第一主日(Mk 13:33-37)
皆さんは、小教区の新聞みたいな、何かのお知らせに原稿をお願いされたことはないでしょうか。そしてそういった時に、皆さんはお願いされた原稿を、簡単にサッと書き上げるタイプでしょうか。それとも、ずいぶん考えて、もう締め切りぎりぎりになって、ようやく仕上げるというタイプでしょうか。

私は、典型的な後者のタイプです。つまり、ぎりぎりにならないと書けない、編集者泣かせのタイプだと思っています。


私のいる「太田尾小教区」では、一年ほど前から、私一人でちょっとした新聞みたいなものを作っております。もうお分かりでしょうが、新聞が出来上がるのはいつもぎりぎりです。そうして、いつも「あー、来月こそは、少しずつ書き上げて、余裕を持って印刷するぞ」と思うのですが、今まで一度もうまくいったためしがありません。


皆さん自分に当てはめて考えてみてください。こちらに小教区の新聞があるのかどうか、よく知らないのですが、ある決められた字数で、わりあい自由に書いてくださいと言われて原稿を頼まれたとしましょう。たとえば、そうですね、今週から待降節に入っていますので、十二月の新聞の記事として、「クリスマスの思い出」なんて題で原稿をお願いされたとします。皆さんは、サッと書き上げますか?うんうん唸って、苦労するほうですか?


たいてい、文章を書くのが苦手な人は、何か「あ、分かった。ひらめいた」という「その時」をずっと待っているようです。こんな人は、いざ机に座ったからと言って、サッと文章が思い浮かぶわけではありません。何行か書いてみて、あーこれではいけないと、その紙を丸めて投げ、また書き始めてそれも丸めて投げてと、なかなかうまく行きません。


そういう時に限って、机を片付けないと気分が乗らないとか言って、片付けを始めたりします。そんなことをしても時間が減るばかりで、うまくは行かないのですけれども、分かっていてもやめられないこともあります。しまいには部屋を片付けたり、いや、部屋にこもっているから書けないのだと、気分転換に外を散歩したり、ありとあらゆることをして、「その時」を待つのです。


そうしてあれこれと格闘して、いよいよ締め切りの日が近づくと、なぜでしょうか。ある時、思いがけないことで「その時」がやってくるのです。「なるほど、これで書ける」。そう思ったらしめたもので、今まで悩んでいたのが、ウソのように、すらすらと書き始めるのです。


ですが、書くのが苦手という人も、落ち着いて考えると、じつはそれまでかかった時間、たとえば何度も紙に書いてみては失敗し、気分転換をはかり、外に目を向けたり、いったん頭の中を空っぽにしたり、そのためにかかった時間は、すべて「原稿を書く」ための有意義な時間だったのではないかということに気が付きます。その人にとっては、ちょうど今日の聖書の言葉にあるように、頼まれた原稿が出来上がるまで、「目を覚ましていた」のです。


頼まれた原稿がいつできるのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、記事を書いている本人にも分からないのです。それでも、「目を覚まして」用意を怠らないなら、ある日、思いがけない時に、「その時」がやってくるのです。思いがけなくやってくる「その時」は、喜びいっぱいの時、いのちの力がみなぎる最高の時なのです。


今日朗読しているマルコ福音書の箇所は、そのまま読むと、神殿がこなごなに壊れると予告したその時についてと、イエス様がもう一度やってくる時のことを教えようとしている箇所なのですが、典礼の季節と結び付けて読む方がよいと思います。


つまり、今日は待降節の第一主日、イエス様の誕生を、今日から、大きな希望を持って待ち望む季節なのです。この典礼の季節と結び付けて考えるとき、次のような呼びかけを引き出すことができるのではないでしょうか。「イエス様がお生まれになるのは、いつなのか分からないから、目を覚まして用意していなさい」ということです。


「イエス様の誕生は、十二月二十五日でしょう」。すぐに、そうお考えになる方もいらっしゃると思いますが、私の小さな体験からすると、イエス様がお生まれになる「その時」は、突然やって来るのです。


私が小学生の時、それはもうはるか二十年も二十五年も前のことですが、その頃二十四日のクリスマスイブのミサは、ずいぶん遅い時間にあっていたと思います。その日の晩、子どもたちは早めに床に就き、いったん寝かされてから、ふたたび起こされてミサにあずかったものでした。


目をこすりながら、教会に続く階段をのぼると、いちばん最初に、教会の両脇に構えてある「輝くクリスマスツリー」が迎えてくれました。教会に入って、ミサが進んでいくと、馬小屋はまぶしいくらいに飾られ、電気もいっぱいついて、にぎやかな馬小屋に変身します。


それは、子供の自分にとって、本当に突然やって来る喜びの瞬間でした。明らかに、子供にとっては、「その時」は突然やって来るのです。どんなにシスターに教えられても、両親に今日がその日だと諭されても、「あっ、いま生まれた!」という瞬間は、子供にとっては突然やって来たのでした。


この小さな体験は、じつはすべての大人の方々にも考えていただきたいことなのです。私たちは「目を覚まして」用意しているなら、新鮮な気持ちでクリスマスを迎えることができます。


教会の飾り付けに参加したり、家庭で捧げものの貯金箱を用意したり、個人的に誰か病人やお年寄りを見舞ったり、そうした準備をしているなら、私の魂の主人は突然やって来て、私たちを喜びで満たしてくださるのです。反対に、ただぼんやりと二十五日になるまで時間を無駄にした人は、ありきたりのクリスマスで終わってしまいます。


「目を覚まして」用意いたしましょう。思いがけない「その時」を迎えるために。「私という家」の主人が、大きな喜びを携えておいでになり、わたしの心を溢れる喜びで満たしてくださるために。