主日の福音 1999,11,21
王であるキリスト(Mt25:31-46) 
今日は、「王であるキリスト」の祭日です。イエス様は、すべての人の王として、私たちを守り、導き、私たちのすべてにいのちを吹き込んでくださいます。この日のミサの中で、あらためて私たちの信じるキリストに賛美を捧げてまいりましょう。

また、太田尾教会にとっては、さらにもう一つ、特別な意味があります。それは、私たちのこの教会は、「王であるキリスト」に捧げられた教会だからです。この日を機会に、私たちの教会に愛着を持ち、教会を訪れるたびに、「私は、王であるキリストに、賛美と感謝を捧げに参りました」という気持ちを持ちたいものです。

さて今日の福音では、最後のときにあるであろう「裁き」について、マタイなりの呼びかけをしておられます。結論から言うと、「この最も小さい人にしてくれたか、してくれなかったかが、私たちを見る物差しになる」と言うことです。なかでも、マタイがこだわっているのは、「小さい人にしてくれたかどうか」という点です。

マタイ福音書の中で、「小さな〜」「小さい〜」という言い回しが十二回出てくるのですが、今日の箇所を含めて、そのうちの十回までが「小さな者」「小さい者」というふうに、人に結びつけられています。これは、明らかにマタイが意味を持たせて使っていることを物語っています。「小さな者」が、マタイの描くイエス様にとっては重大なのです。

なぜマタイは、「小さい者にしてくれたこと」を大切に考えるのでしょうか。それは、とりもなおさず、神が、私たちのために「小さい者」となられたからです。ほぼ二千年前に、天地万物の創り主、宇宙の王が、小さな命となってくださったからです。神さまが、小さい命になることに目を向けられたように、私たちにも、最も小さい者に目を向けるように促しているのです。

神さまが限りある命に目を向けてくださったことは、大きな大きな愛に動かされてのことでした。この神さまの溢れる愛に触れるために、私たちにも小さい者に目を向けなさいと勧めます。小さい命に愛を注がれたことが、神さまにとって偉大な業であったように、私たちが周りにいる最も小さい人に目を向けることもまた、偉大な業です。神さまが私たちを裁く物差しとされるのは、ここで言う「偉大な業」に気付き、じっさいに行いで表していく人のことです。

先日、「西日本宣教大会」の集まりが福岡でありまして、参加したのですが、その時一通の手紙と、まだ何も書いていないハガキを一枚手に持って出かけました。福岡での大会には何の関係もないのですが、ぜひここで返事のハガキを書いて出したかったのです。

一通の手紙とは、長崎にいる中学二年生の神学生からの手紙でした。いつだったか私が神学校にいるシスターに顔を見せに行ったとき、いいところを見せようと思いまして、「これで神学生にアイスでも買って食わせてくれ」といって、少しばかり志を置いていったわけです。

しっかりアイスをほおばった神学生の一人が、おそらく校長神父様に言われてのことでしょう、お礼の手紙を書いてきました。中学二年生で、見たこともない子供です。「感心なもんだなぁ。返事でも書いてやるか」と思ったまでは良かったのですが、それっきり手紙は散らかった部屋の中に埋もれてしまいました。

さて福岡に出発するために、二泊三日の旅の荷物をまとめていると、思いもしないところから一つの手紙が出て来るではないですか。返事を出さず仕舞いになっていた神学生からの手紙でした。

差出人にしてみれば、三ヶ月もたったのですから、もう返事が来ることなど当てにはしていなかったでしょう。あるいは、お礼の手紙ですから、返事が来るとは思っていなかったかも知れません。ですが、ここでちょっとした気遣いをすれば、さらに神学校生活に弾みがつくかも知れません。返事を書いたのが三ヶ月たった木曜日で、お説教を準備する前でしたが、結果として「この最も小さな者に心を配った」ことになったのでした。

本人を前にしては言えませんが、中学二年生といったら、まだ海のもの とも山のものとも知れないひよっこです。本当に「最も小さい者」なのです。ですが、この神学生に、「キミのお礼の手紙には本当に心を打たれた」そう感じさせる何かをしてあげるなら、神さまは報いをくださるのではないでしょうか。

「聖書と典礼」のパンフレットをお持ちでしたら、もう一度イエス様の報いの言葉を、目を凝らして読んでみてください。イエス様が私たちに注意を呼び起こしている人とは、「最も小さい者」です。私たちがいかにしいたげられているとしても、私たちの周りに「最も小さい者」は必ずいるのです。「私こそ、お世話してもらいたい」と感じている人にも、何かしてあげられる「さらにしいたげられた人々」がいて、この方々がじつは、人となられたキリストの現れなのです。

また、私たちが果たす「小さな者への心遣い」に対する報いは、「天地創造の時からお前たちのために用意されている」と書かれています。天地創造の時から、小さな者に目を向けておられた神は、今小さな者に目を向ける私たちを同じレベルで見てくださるのです。

私たちが、神のなさり方に倣って、「小さい者」に目を向けることは、そのまま、態度で神を神として認めることになります。キリストが小さな者になられたように、私たちも「最も小さい者」に何ができるかを、思い巡らすことにしましょう。何か一つの形にすることで、生活そのもので王であるキリストを認める者となることができます。具体的な行動をとるために、前に歩き出すための力と照らしを、ミサのなかで祈ってまいりましょう。