主日の福音 1999,11,14
年間第三十三主日(Mt25:14-30) 
いよいよ、わたしたちの住む大島と本土を結ぶ「大島大橋」が開通しましたね。「離島」の不便さが、これで取り除かれました。あとはわたしたちの創意工夫で、このチャンスを生かすことが必要になってきます。

チャンスを生かすと言えば、今日の福音はまさにそのことをわたしたちにあらためて考えさせてくれます。主人がしもべに五タラントン、二タラントン、一タラントンをあずけて、それをうまく活用するようにと、主人は期待しているわけです。

与えられた才能、手に入れた資格は、本当に賢く使いこなすことが必要です。じつは大島大橋が開通した次の日に、聖書講座のために佐世保市に出かけたのですが、このとき私の前を走っていた車が、「安全すぎる安全運転」をしてくれまして、西海橋あたりで別れるまで、ずっと付き合わされました。

安全運転が悪いと言っているんではないんですよ。ですが、「50キロ」の指示のあるところで、48,49キロあたりになるとチョン、チョンとブレーキを踏みながら運転されては、後に続く車はたまったものではありません。「安全運転は結構だけど、うしろはちょっと急いでいるから、どこかで道を譲ってくれないかなぁ」そんなことを思って、多少(ではない、ものすごく)イライラしながら運転していたわけです。

上り下りだけではありません。平坦な道でも、ブレーキを踏んで走っているんですよ。どこでパッシングしようか、そんなことばかり考えて、もう頭からは湯気が立っていたんです。しまいには、「この人は、止まるために運転しているんだろうか?」なんて愚痴まで出る始末です。

せっかく、「どうぞ運転してください」という資格を得ていながら、「あ、50キロになりそうだ。ブレーキ、ブレーキ!」こんな運転では、免許をいただいたことを恐れているようなものです。「どうぞ」と任せられたことを感謝し、ゆったりと、落ち着いて運転する。こんな心がけが、免許を活かす運転の仕方なのではないでしょうか。

今日の福音書で、あずかったタラントンをいかしたしもべと、いかせなかったしもべが紹介されていますが、両者の違いはどこにあったのでしょうか。主人はそれぞれの力に応じて、財産をあずけたのに、どうして違った結果になったのでしょうか。

「恐ろしくなり」という言葉が、私の目を引きました。五タラントン、二タラントンあずかったしもべたちは、同じ主人の態度を「恐ろしい」とは感じていません。きっとこのあたりに違いがあるはずです。主人はしもべたちには公平に接したはずですから、しもべたちの心の中を探ってみる必要があります。

それぞれのしもべの中で、主人は、「蒔かなかったところから刈り取るお方だ」という印象があったのでしょうか。ある意味で、どのしもべもそのことを考えていたと思います。主人は、どのように活用すべきか、いっさい指示を与えませんでした。主人は種を蒔かずに、「種蒔くことさえ」任せたのです。

「どんな使い方をしてもよい。すべてお前に任せる」。これをしんらいとうけとるか、脅迫と取るかは、本人の心次第ではないでしょうか。私は、大方の人が、「全面的に任せてくれて、ありがたい」と思うのではないかと思います。なのに一タラントン預かったしもべは、恐れたのです。

もしかすると、このしもべは本当に信頼してもらう体験を、これまで一度もしたことがなかったのかも知れません。使用人として、道具のように使われることに麻痺して、「人と人との、温かい交わり」を知らなかったために、恐れたかも知れません。

あるいは、「私なんか、そんなに信頼してもらうほどの者でもありませんよ」と、人に見せびらかして生きてきたために、本当に信頼してもらっている人に答えるすべを知らないあわれな人間だったのかも知れません。

いずれにしても、私たちはこのしもべの姿を見て、自分を振り返る必要があります。じつは、教会の活動の中で、「あなたに任せる」と、企画、立案、実行のすべてを任せられていることは結構にあるのです。

例えば、今日は太田尾教会のバザーになっていますが、これこそ、それぞれの持ち場を、任せられた人で大いに知恵を出して盛り立てて良いわけです。誰かが、すべての準備にいちいち口を挟む筋合いのものではありません。私などは、あとで「よくやった」と言うばかりです。もし、「失敗したらどうしよう」などといって、出し物を出展しなかったらどうなるでしょう。それこそ、このバザーを台無しにしてしまうのではないでしょうか。

似たようなことは、ほかにもあります。親から子へと伝えていく信仰も、家庭の中で「いろいろやってみて!恐れないで!」と励ましておられます。「うまく行かなかったらどうしよう」「嫌われたら、どうしよう」などの心配は、それこそ余計な心配なのです。

こうした一人ひとりのタラントを、どのように使ったかは、最終的には父なる神に報告する必要があります。たとえ話の中では、しもべたちが報告を受けるのは、「かなり日がたってから」ということになっていました。私たちが報告するのも、「かなり日がたってから」、すなわち、人生の幕を閉じるときではないでしょうか。

その間には、もしかしたらすべてを失う時機があるやもしれません。けれども、それを取り返すだけの時間もあるのです。最終的に「神さまに任せてもらっても、返せなかったら困るから、預かりたくない」と恐れのうちに最後を迎えた人だけが、父なる神に叱られるのです。

同じ神が、才能に応じてではありますが、同じように私たちに信頼を寄せて何かを任せておられます。感謝のうちに、私が神の前に立つ日を迎えることができるよう、今日のミサの中で祈ってまいりましょう。