主日の福音 1998,11,22
王であるキリスト(Lk 23:35-43)
いよいよ年間最後の主日、王であるキリストのお祝いを迎えました。今日このお祝いは太田尾教会が王たるキリストに奉献されているということとも併せて、特別の意味があると思います。キリストが王であるとはどういうことなのか、そして私たちは王であるキリストを生活の中にどのように取り入れ、どのようにあかししていくのか考えていくことにいたしましょう。
朗読された箇所はイエス様の最後の場面、受難の出来事のひとコマです。議員たちがイエス様に悪口を浴びせています。兵士たちは近寄って酸っぱいブドウ酒を突きつけて侮辱しました。イエス様と一緒に十字架にかけられた犯罪人の一人もののしっています。いま紹介した人物は、ただ単に人物を並べただけではなく、それぞれに一定の距離をおいてイエス様と接している人達です。
議員たちは遠巻きに、兵士はより近付いて、犯罪人は一番そばでイエス様の様子を見ていますが、イエス様を理解するには至りませんでした。イエス様に近づけば近づくほど、イエス様のことを理解できそうなものなのに、実際はそうでもないようです。イエスの近くにいた犯罪人であっても、自分自身のエゴや思い込みが、イエス理解を妨げています。
ただ近くにいるというだけでは、人はイエス様を理解できないのです。これは立場の問題に置き換えても同じことが言えると思います。近からず遠からずイエス様と接する、そういう生活の中でイエス様と関わる人もいるでしょう。あるいは、生活のなかでわりとイエス様を身近に感じて生きる立場にある人もいるでしょう。もっと堂々と、イエス様に生活をかけて生きる立場にある人もいるわけですが、だからといってイエスも十分に理解できるとは限らないです。
今日登場する人物の中でただ一人イエスも理解したのは、もう一方の犯罪人でした。彼は十字架にかけられたイエス様の中に王であるキリストを見いだします。他の人が見いだすことのできなかった何かを見つけたはずです。
何を見つけたのでしょうか。それはののしり騒ぐ人たちを最後まで忍耐される姿、イエスを理解しない、むしろ敵意を持っている人たちにもお仕えする姿でした。こういう態度は本当にできた人、本当に偉大な人でなければ行えない。これこそ本物だ、一番偉い方なのだということを犯罪人は見ていたのです。
私たちも、この犯罪人の理解したところを同じように汲み取る必要があると思います。イエスは王です。イエスのは偉大な方です。けれども、自分に都合の良い見方や、打算的な考え方、偏見や思い込みを持ってイエス様を見つめるならばその姿は見えなくなってしまうのです。
自分自身の思い込みや偏見を捨てて、ありのままのイエス様の姿から王のしるしを見つけることにしましょう。イエスさまは仕えることで王になられました。このイエスを生活の中に私たちがお迎えするためには、私たちも互いに仕え合う人にならなければなりません。柔和な王を認めながら、自分の生活ではそれに反して横柄な態度をとり続けるなら、自分たちの王を証明しないことになります。
むしろ家族、隣近所、一緒に働く人たちの中であかしをする生活を私たちが目指すなら、「私の王はキリストです。彼に倣って私たちはお仕えすることを大いに喜んでいます」と回りの人たちに証明することができるのです。そしてその時こそ本物の王を私たちはお迎えすることになるのです。太田尾教会はこの日、王であるキリストをお迎えし、特別な親しみを込めて祝っているのですから、喜ぶだけではなく生活の中に証を立てて、私は王であるキリストを生活の中に迎えます、私は王であるキリストを喜んで証しますという気持ちになってほしいものです。
具体例をいくつか挙げておきます。皆さんは朝晩の祈りと聞くと、少々耳が痛いかもしれません。では尋ねますが、朝一番に王であるキリストに「おはようございます」と祈りをすることは、いちばん身近な証しなのではないでしょうか。反対に、王であるキリストにあいさつしない私は、いったい誰なのでしょうか。キリストに一日の始めと終わりを向けないことで、自分が王であることを宣言するようなものです。こういう考え方で、日常を振り返ってみてください。
困難に際して、知恵と照らしを求める人は、王であるキリストを知っている人です。反対に、願わずにちっぽけな自分の知恵に頼る人は、折りにつけて自分を王にしようとしているのです。両者の大きな開き、大きな隔たりをよく理解していただきたいと思います。
何かの工夫を一人ひとりがするならば、太田尾教会上げて立派なお祝いをすることになると思います。何か取り組みを考えてみましょう。私はやはり昔気質なところもあるので、ごちそうしてお祝いする昔の習慣は、大歓迎なんですが、それに加えて態度で、つまり行動で王であるキリストを証する、行動的にお祝いする道もこれから学んでいきましょう