主日の福音 1998,11,08
年間第三十二主日(Lk 20:27-38)
今日、イエスさまは、復活についての正しい教えを示してくださいました。私たちもイエスさまの言葉に耳を傾けながら、復活についての教えをもう一度思いおこし、希望を新たにすることにいたしましょう。

今日の福音で、イエスさまは、復活はないと言いはるサドカイ派の人々に、復活の教えについてはっきりと釘を差します。サドカイ派の人々は、モーセの教えとして集められたモーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)は信じていましたが、その後の旧約の書物から知られるようになった死者の復活は信じていませんでした。

サドカイ派の人々の質問には、意地悪な響きが感じ取れます。どこまでも人間の物差しで復活を推し量ろうとするため、「これなら答えられまい」というような響きです。けれども、答えを求める彼らの腹の内は別として、彼らの態度には正しい点もあったのです。すなわち、復活についての正しい教えを持っておられる、唯一の方、イエスさまに、彼らはその答えを求めたのです。

イエスさまはどのように答えてくださったのでしょうか。イエスさまは、彼らの間違いをただす答えを示されました。復活は確かにあるということ、そして、復活に与った人々は、地上の生活から解き放たれるという点です。さらに加えて、人は神によって生きている、生き続けるものだということも、この論争の中で示そうとしておられます。それぞれについて、しばらく考えてみましょう。

この地上の生活で、結婚して子孫を残すことは、人が生き続けるために当然必要な営みです。子孫がなければ、家系は途絶え、財産も手元から離れていくからです。旧約の規定は、家系を保護するための掟がありました。夫が子供を残さずに亡くなった場合、夫の兄弟がその妻と結婚して、前の夫のために子孫をを残してあげるという規定(レピラト婚)が、その例です。こうして家名を残し、財産が人の手に渡るのを防ごうとしていました。

これほど具体的に掟が定められていたのは、神がイスラエルの民の生活に、深く関わっていることを示そうとするものです。イエスさまはこのような具体的な方法が、復活に与った人々の間では当てはまらないことをはっきり示しました(v.35)。復活に与るのにふさわしい人々は、死ぬことがありませんから(v.36)、子孫を残すことに縛られないのです。人が生き続けるために、もう結婚にたよることなく、神様から新しい方法で生かしてもらえるのです。

神様はどのように、人を生かしてくださるのでしょうか。今日の最後の箇所で、イエスさまは、復活の恵みにじかにふれています。「すべての人は神によって生きているからである」(v.38)。復活とは、単に体がよみがえるということにとどまらず、神に生かされること、神に生かされた人間のことを意味しているのです。そこで私たちもサドカイ派の人々に負けず劣らず、主の御言葉に、復活の意味と私たちの生活の結びつきについての具体的な教えを求めてみましょう。

イエスさまは、人が生きているのは、自分自身の力によって生きているのではなく、神の恵みに支えられて生きていることを意味するということを思い起こさせようとします。現在生きていることが以上のように理解されるなら、復活は命の担い手、命そのものである神をはっきりと理解させる恵みということになります。なぜなら、人が死んで、なお生きるということがあるのは、ひとえに神様のおかげだからです。神様にすべてを負って、その支え、照らし、導きがあってはじめて、死者も生きていると言えるからです。

このように復活が、神様に全面的に頼って生きることだとすれば、この地上の生活でも、いち早く復活の恵みを感じて生きることもできるはずです。身近な体験を、復活への信仰に結び付けて受けとめ、理解していくときに、イエスの指し示す生き方が身についていくのではないでしょうか。

ひとつの例を申します。母方の祖母が亡くなったときのことです。静かに、眠っているようにしている祖母を間近に見て、まず思ったことは、「ああ、婆ちゃんとはもう話もされんなぁ」ということでした。息ひとつせず、まわりの雰囲気も知らないかのように、じっと眠っています。「おばあちゃん、どこか痛いところはないね、さすってあげようか」。以前はこんなふうに声をかけたこともあったのですが、亡くなってしまってはもう何も聞いてもらえません。寂しいなと思いました。

あとで考えたことですが、あの時の直観みたいなものは、何かを言いあてていたと思います。つまり、「そうだよ。君のおばちゃんはね、神様が全てお世話することになったから、もうお話しできないんだよ」ということです。神様によって生きるということを、今こそ肌で感じているので、私たちの声が届かないのかもしれない。振り返ってそう思ったわけです。

今でも、亡くなられた方の静かな顔を眺める癖があります。それは興味本位ではなくて、本当に、声をかけても答えない、その姿に、神様と向き合っているさまを見ることができるからです。こんなに安らかに眠っている。やっぱり神様は、この人を呼んでくださって、ご自分のそばで生かそうとしておられるんだなあと、つくづく思うのです。

私たちも、さまざまな立場に置かれて生きています。息ぐるしいと感じているかもしれません。「世の中住みにくい」というかもしれません。けれども、生きているという事実は残ります。たとえ、ゆとりや、安定した生活や、回りからの世話が取り上げられても、私が今生きていることはまがいもない事実です。これこそ、神様が生かしてくださっている何よりの証拠です。それを忘れて、「神なしでも生きられる」と自分を欺くより、どれだけ幸いなことでしょうか。

今日も無事に、一日が終わります。復活の信仰が、生きることの素晴らしさを教え、照らしてくださるように、ミサの中で祈りましょう。