主日の福音 1998,11,1
諸聖人の祝日(Mt 5:1-12a)
今日私たちは、諸聖人方をお祝いしています。あの聖人この聖人と、特定の成人をお祝いするのではなくて、もろもろの聖人方をお祝いするという日です。

少し考えてみたのですが、教会では、何月何日と特定の日にお祝いしている聖人がたくさんいらっしゃって、それぞれ決められた日にお祝いしているのに、なぜ諸聖人なのかということは、よくよく考えると不思議な気がします。今日のようにまとめてお祝いする日がどうしてあるのでしょうか。皆さんはそんなことを考えたことがないでしょうか。

そう考えてみると、諸聖人のお祝いを改めて考える良いきっかけになると思います。今日の諸聖人のお祝いは、やはり特別な祝いとして、それなりの意味と価値があるわけです。

すぐに思いつくことから始めてみましょう。今日こんなふうにしてまとめてお祝いするからには、私たちが名前を知らない聖人方が実はたくさんいるのではないかということです。最初に断っておきたいのですが、聖人方のお祝いは平日のミサも含め、年間を通してたくさんの方々をお祝いしていますが、この聖人方にはいくつかの分け方があって、祝日として扱う聖人、記念日として扱う聖人、任意でお祝いする、必ずお祝いするのではないが、その国にとってたいせつな聖人や、任意だけれども自分の霊名になっている聖人など、という区分があるんですね。

この中で祝日扱いされる聖人と記念日扱いされる聖人は間違いなくお祝いしているのですが、任意の聖人方はそうでもありません。まずはこういう方々を、諸聖人として今日いっしょににお祝いすることになります。

もう一つ私が考えていることがあります。それは、天国に迎え入れられた方々のことです。イエス様はかつて、洗礼者ヨハネを引き合いに出して、彼よりも偉大な人はいなかった、しかし、天の国でいちばん小さい人でも、彼よりは偉大であると仰ったことがあります(Mt 11:11参照)。

イエス様が、天の国におられる方は、洗礼者ヨハネより偉大と仰るのですから、私も臆せずに、天の国に入った人はすべて、聖人と言って良いと思っています。というのは、天国に迎えられた人々はもはや決してそこから外に出されることはありません。そして迎えられてからは常に神の永遠の喜びに与っているわけです。そうすると、天国に入った人は、たとえそれが滑り込みであっても聖人として喜んでいいのではないかと思っています。

諸聖人のお祝いに選ばれた福音書を見てみましょう。山上の説教として有名な、マタイ福音書の5章です。ここで特に皆さんに分かってほしいところは、「幸い」ととなえられた人は、「慰められ」「満たされ」「神のこと呼ばれる」ということです。

ここで私が言いたいことは、悲しむ人が自分で慰めを受けるとか、義に飢え乾く人が自分で満ち満ちていくとかいうことではありません。自分で手に入れる慰めや満足感はたいしたことがないのです。そうではなくて、神が、悲しむ人を慰め、義を求めている人を満たしてくださるということなのです。受け身の形で書かれている箇所は、そのように読み進めてほしいのです。

そう考えると、この山上の説教が誰に向けられているかも見当がつきます。答えははっきりしています。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」(v.11)。この地上で思い悩み、あえいでいる私たちこそが、イエス様の招きを受けているその人なのです。

今日お祝いしている聖人方も、間違いなく、私たちと何ら変わらない道を歩き通しました。そしてすでに幸いを得ています。私たちはというと、さしずめ、今日のイエス様の幸いの約束を見つめて今生きている者ということになるでしょう。神が幸いをお与えになりますから、約束は確実ですが、私たちにも期待されていることがあると考えるべきです。どういうことでしょうか。

聖人方は、生きておられる間、幸いな者となることを熱望して生涯を全うしました。そこで私たちも、彼らの生き方をほめたたえ、取り次ぎを願って、私たちが、幸いを熱望して生きる次の人になることです。

柔和な人は、幸いです。それなら、私たちが柔和な人になって、イエス様の幸いをいただく生き方に徹しましょう。都合の良いときばかりでなく、神経を逆なでする人を前にしても同じ生き方を貫くとき、私たちは諸聖人のあとを慕う者となることができるのです。

幸いな人になる道を今日耳にした私たちが、続けて諸聖人方のあとを慕う者となることができるように、恵みを願って引き続きミサを捧げて参りましょう。