主日の福音 1998,10,25
年間第三十主日(Lk 18:9-14)
皆さんは信号が黄色の時、もちろんこれは車を運転する人の話なんですが、どんな行動をとりますか。私は、よく、「あぶないあぶない」と言いながら、アクセルを踏んで走りぬけていきます。

ホントはこんなことはよくないんですが、正直な気持ちです。信号が黄色の時に私のような運転をする人は、そのうちに赤信号も通り抜けるようになってしまいます。黄色の信号を見て、きちんと止まらない人が、「これではいかんなぁ」と思って、だんだん良い方に変わっていくということはまず考えられません。ほとんど良くない方に傾いていきます。

さて今日の福音ですが、二人の人が登場しました。最初のファリサイ派の人は神様に認めてもらえない祈りの例で、徴税人は神様に認めてもらえる祈りの例と考えて良いと思います。これは、もう少し考えてみると、良い心がけでお祈りする人から、心がけがよくない人の祈りまで、お祈りをする人の全体を表しているわけです。こうして全体の枠を押さえておくと、私たちすべてが、今日の福音の招きに与れることも、知っておきましょう。

ファリサイ派の人の言葉に、「私は週に二度断食をし、全収入の十分の一を収めています」とありました。すごく鼻につくような言い方ですが、彼は自分の働きと神様の祝福を取引していると思います。恵みを与える時、神様は決して人間と取引をしません。いついかなる時でも神様は自由に恵みを与えます。いくら人間がこれだけの努力をしました、これだけのみのりをささげますといっても、神様が私たちの声に左右されたり、影響を受けるわけではないのです。

それでも、イエス様は徴税人の祈りに私たちの注意を向けようとします。それは、徴税人の祈りが私たちにとって立派なお手本となるからです。信号の話にたとえるなら、彼の祈りは青信号なので、どんどん続けてよいのです。神様に受け入れられる「何かの心がけ」を持っている祈りは、そのまま続けていくことによってさらに進歩していきます。

反対に、ファリサイ派の人の祈りは赤信号です。私たちは赤信号を見れば、気持ちはどうあれ、完全に停止して青信号になるのを待ちます。ですからファリサイ派のこの人も、完全に止まって自分の祈りについてよく考え直す、反省して「青信号」と見なされるような祈りへ移行していかなければなりません。赤信号を無視して祈り続けるファリサイ派の人は、神様に祈っているというよりも自分に祈り、自分ひとりで満足しているのです。

私たちも自分のお祈りをもう一度考え直してみましょう。私のお祈りは自分だけが満足するお祈り、つまり赤信号と見なされていないでしょうか。神様に祈りを本当に届けるためには、「青信号」と見なされる祈り、つまり信頼と任せる気持ちが必要です。

振り返ってみましょう。「これだけ祈ったから、これだけ返してもらえる」という考えが私の頭の中を支配していないでしょうか。取引に慣れっこになっている私のものの見方を捨てて、「神様、あなたが何を返して下さるか、あなたにおまかせします。私の言葉が不十分だったら、許して下さい」。こんな任せる気持ちを持って祈っているでしょうか。もし、信頼と任せる気持ちで祈っているなら、私たちのお祈り、願いは、具体的な内容は一人ひとり違っていても、ひとつにまとまって神様のところに届くでしょう。信頼と、任せる気持ち、この同じ土台に立ってお祈りするなら、私たちは安心です。もし、わたしのお祈りが、どんな土台の上に立っているか分からない人は、黄色信号です。一時停止して、考えてみましょう。それはもしかすると、赤信号になる直前なのかもしれません。

このミサの中で、一人ひとり、願っていることがあると思います。できれば、青信号でどんどん進むことのできる、良い心がけで祈ることができるように、ミサの中で恵みを願いましょう。