主日の福音 1998,10,18
年間第二十九主日(Lk 18:1-8)
今日の福音は、中田神父が個人的に非常に好きな箇所のひとつです。何よりそのたとえが非常に気に入っています。イエス様はしばしば例えをお使いになり、話をわかりやすくしてくださるのですが、いつでも、伝えたいことをいちばんわかりやすく伝えるためのたとえをお使いになったことでしょう。

私たちだったら、たとえは悪いけれどもと断りを言って、その場にふさわしくないようなたとえやわかったようなわからないようなあいまいな例えに終わってしまうこともあり得ますが、イエスさまに限って、そのようなことはおよそ考えられないことです。つねに、その場にいちばんふさわしい適切な例えをお使いになったことでしょう。

それを踏まえた上での話なのですが、イエスさまは今日「不正な裁判官」という設定の人物を登場させました。不正な裁判官について、イエス様ははっきりと、この人は神を畏れず人を人とも思わない裁判官と明言されました。

たとえは悪いけれどもということは私たちの場合だったらあるかもしれません。けれどもイエス様にはあり得ないことです。それなのに、こんな冷酷非情な人物を例にとってイエス様が話をしているなんて、考えてみるだけでも愉快です。イエス様でもこんな例えを使うかなあと思うと、いささかほっとします。

ほかにも、こんなことを言わせるかなぁという言葉が出てきます。「うるさくてかなわない」とか「さんざんな目に遭わせる」とかです。この、さんざんな目に合わせると書いてあるところは、もともとの意味をたどると殴り合いをして目の下を殴られて腫れるというような意味があるそうです。それほどの目に遭わせるということは、よっぽどこのやもめはしょっちゅうやって来て裁判官を悩ませたのでしょう。この執拗さ、執念深さが神に祈り求める一つの姿だと、私たちに教えているかのようです。

私たちはどうかすると諦めが早いです。土曜日にミサに行けないとなると、日曜日のミサの方に行こうとは考えないとか、行けるんだけれども行かないとか、まあこんなに簡単にあきらめるものかと思ったりするんですが。

今日のたとえの中の女性は全く正反対です。私の主張が受け入れられるまで、何としても引き下がらない。こんな我慢強さを持ちなさいとおっしゃっているのです。

もちろん何を願うか、それは問題です。登場するやもめは自分の正義を守ってほしいと願ってのですが、私たちもまた、同じ願いを持つべきでしょう。私利私欲にとらわれたことを願っても願いはかなわないでしょう。むしろ私たちは、救いという、ただ一点に集中して願い求めるべきです。希望が見えないような時、何の支えも感じられないとき、それでも神は私を守ってくださる、私を救ってくださる。そのことを神よ、私に証明してくださいと執拗に願い求めることです。

台風で一日ハラハラしながら追加を過ごしたのであることを思い出したのですが、以前いた教会でこんなことがありました。前日から台風が吹き荒れ、屋敷のまわりにも割合大きな枝が折れて飛んできていまして、ミサ前に片づけるのだと、主任神父様から眠たいのを叩き起こされ、片づけに出ました。

そこにはもうすでにかなりの信者さんが来ていまして、いっしょに手伝って下さり、結局ミサの時間は遅れたのですが、司祭の方は心の中で、何となく勇気づけられたのを覚えています。年輩のおばあちゃんもやってきては、「神父様、ミサはなかとですか」と仰ったのですが、私が言うより早く、「こがん台風の中、どがんしてミサばすっとか、はよそこら辺の片づけば手伝うわんね」と、叱られながら加勢して、ぬれネズミになったようにしてみんなでミサを捧げた日もありました。

雨が降ろうが、槍が来ようが、火の玉が飛んで来ようが、教会に足を運ぶ人たちには、どんな人でも心を動かされます。そこには「婆ちゃんもまたこがん台風の中に来てま」と、半分叱られながらもやって来る姿は、怖い裁判官や、怖い神父様(そんな神父様がいるとして)にもたじろがない強さがあります。本当に頭が下がります。きっとそのような人がいるのでその教会の土台は揺るがないし、表に立って活躍する人たちの活動も成り立っているのでしょう。

夜も昼も絶えず教会のことを思ってくれる、そういう人がいる教会で、私たち司祭が奮起しないでいられるでしょうか。

まぁ、これは余談なんですが、平日のミサはせいぜいよく来て十五人から二十人です。冷やかしでもですね、皆さんのがたが毎日ミサに来てくれるなら、眠たそうな目をした中田神父の目も、一発で覚めるのではないでしょうか。台風が来ようが、テレビで大雨の被害を目にしようが、役員会をやるぞと強引に話を決めるくらいの人間ですから、ちょっとあの不正な裁判官に似ているところもあるわけで、毎日毎日ここがいっぱいになったりしたら、きっとどんな計画でも神様はかなえて下さるのではないでしょうか。

神は、私たちの願いをすべて聞いておられるわけですが、考えてみるとひっきりなしに祈り求める人の声の方がよく聞こえてるのではないかと思うんです。そういう意味で、祈りのひとつの形として、今日の福音書の女性の姿、私たちも考えてみてはいかがでしょうか。私はこれも、信仰のひとつの姿、生きた信仰のひとつの形だと思います。