主日の福音 1998,10,11
年間第二十八主日(Lk 17:11-19)
平成十年十月十日の体育大会、皆さんご苦労様でした。私は太田尾地区の秘密兵器としてリレーに参加したのですが、あえなく予選敗退し決勝まで上がことできませんでした。

今日、ミサに参加しておられる皆さんの中には、見事優勝を勝ち取られた地区もあるでしょうし、準優勝や、躍進賞の地区もあることでしょう。けれども、ここで私がひとつの地区を取り上げれば、別の地区に差し障りがでるでしょうから、問題のないように私のことだけ話して終わりたいと思います。

「秘密兵器」と自分で褒め上げたのはいいですが、肝心のリレーでは地区に貢献できなかったのが残念です。何せ私がバトンを受け取ったときには、ほかの人たちは次の人にバトンを渡していたわけで、これではいくら私が追いかけても手の打ちようがありません。これを追いつこうなどとはとうてい無理な話です。

大会が終了してからは、それぞれ地区で反省会が行われたことでしょう。太田尾地区もご多分に漏れず、反省会を行ったのですが、ちらっと見回した範囲では私が知っている人と言えば、部落長さんと二三の夫婦がいるだけで、他の人は地域にいながら初めて顔を合わせる人ばかりでした。逆に言うと、地域の方は、「珍しか青年の来とるねぇ」くらいの印象だったかもしれません。

それでも、反省会では大いに気を吐きまして、来年は躍進賞をねらいましょうとか、私は物足りなかったので三千メートルにも挑戦しますとか、果ては1月15日の駅伝にぜひ出して下さい、一発やってやりますからとか、調子のいいことをさんざん言いふらしまして、酔いが醒めた今では、えらいことを言ったものだなぁとそれこそ反省しきりです。

けれども、地域の方々は別の見方をして下さったと思っています。こうした地域の活動に、教会の神父さんが積極的に参加してくれた。思いがけない収穫だったと、けっこうに喜んで下さいました。

実は今までの話は今日の福音に関係がありまして、十人の重い皮膚病を患って人たちがイエス様に、「私たちをあわれんで下さい」と願って、一人の外国人が感謝をささげに来たこととすごく似ていると思います。本当は、残る九人のユダヤ人こそ、感謝をささげに来るべき人たちなのですが、ここでは思いがけない収穫という形で一人のサマリア人が感謝をささげに来ました。

実はこの話に裏がありまして、イエス様を取り巻くユダヤ人社会では、重い皮膚病を患った場合、実これはらい病とかハンセン病という病気なんですが、その人は祭司(今で言う教会の神父様)がそれを診断して、そこで皮膚病であると診断が下されると、その人は今まで暮らしていた生活、もっと言うと社会から完全に隔離され 、切り捨てられてしまっていたのです。そして、思いがけず癒されたとしても、もとのもくあみと言いましょうか、今まで切り捨てられていたその社会の側に立って、今度は他の人を自分がされたように拒絶し、差別していくのでした。これではイエス様が考えておられる本当の喜びに戻ってくれはずもありません。

サマリア人は違っていました。いったん社会から切り捨てられても、もし迎え入れられたら、何よりもまず神に感謝すべきであるということを一人この外国人が証明してくれたわけです。

本来感謝をしに来るはずの人たちが来ないで、当てにしていなかった外国人が神の望みに答えたというのは、本当に思いがけない収穫だったかもしれません。けれどもイエス様は、この出来事を通して、私たちはだれもが、同じように思いがけない収穫に対して、まずは神に感謝を捧げるべきであるということを教えたかったのです。あるいは、神に感謝を捧げることで、思いがけないその収穫は成し遂げられ、完成されるということです。

私たちのことを振り返ると、体育大会で思いがけない収穫があった地区もあるでしょう。それを身近に感じている人は、ぜひ神に感謝を捧げてほしいのです。この主日のミサに来て、感謝を捧げることで、得られた収穫は成し遂げられ、完成されるということを、体で覚えてほしいのです。

「あー、こんなこんな順位だった、さあうちあげだ。」ここで終わってしまっては、いったいどこがどう違うのでしょうか。私たちは、ただ収穫があったことだけをぬか喜びせず、神に感謝を捧げて、信者らしくそのわざを完成させましょう。今回の大会を通して、生活の隅々に、同じ考え方を浸透させましょう。そうした積み重ねは、サマリア人がそうであったように、いつの日か神に取り上げてもらい、すべての人の前でほめたたえられることになるのです。