主日の福音 1998,10,04
年間第二十七主日(Lk 17:5-10)
今日イエスさまは次のように仰います「もしあなた方にからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、抜け出して海に根を下ろせと言っても、言うことを聞くであろう」。弟子たちが、イエス様に「私どもの信仰を増して下さい」と願ったときの答えです。

イエス様が上のように答えて、弟子たちに諭したかったのはどんなことでしょうか。それは、信仰はその大小・浅い深いを問うのではなく、本物であれば、たとえからし種一粒ほどの小さな信仰であっても立派に役目を果たす、大きなわざを行うということを教えたいのだと思います。

私は、通るたびに感心する場所があります。徳万のちょっとした丘のことです。あの場所には、結構な大きさの山がありましたが、今ではあんなに崩れて道路が広くなっているのを見ると、あれだけあったかたまりはいったいどこへ行ってしまったのだろうと、感心するわけです。

ちょっというと山の半分ほどを動かしてどこかへもって行ってしまったわけですね。信仰を取り扱わない世界でも、これだけ大きなことが起こるわけですが、私は、信仰の世界ではもっと大きなこと、場合によっては考えられないものを動かすことができると思っています。解決できない問題、乗り越えられない山を、信仰はあっさりと解決に導き、乗り越える力を秘めているのです。

ある意味で桑の木を移しかえて海に根を下ろすというのは、そうたいした問題ではないのかもしれません。科学の力はかつて不可能だったことを可能にします。そういう意味では造作もないことかも知れません。しかし、これほど科学が重んじられる現代にあっても動かないものもたくさんあります。

例えば、人の心を取り上げてみますみると、これは一筋縄では動きません。頑固な人はなおさらそうです「俺がこうと決めたら、絶対に動かないのだ」そう言って、決して態度を変えない、心を曲げない人もいます。大きな山の岩肌でさえ動くのに、一人のちっぽけな人の心が動かないのです。これは、科学の力をもってしてもどうにもなりません。

ところが、信じて疑わない人というものは本当に計り知れない力を持っていて、今までやったこともないことにも、恐れずに向かっていきます。中学生の勉強会でのことですが、勉強の中で何人かがこんなことを言い出しました。「神父様、どうして教会には聖歌隊がないのですか。聖歌隊を作りましょうよ」。これには私もたまげました。聖歌隊があったらいいなぁとは、私でなくても思っていますが、現実に作れるかという段になると、だれもが後込みをしてしまうわけですが、中学生は聖歌隊は絶対必要だと、信じて疑っていません。

とうとう私も根負けして、「それじゃあ中学生聖歌隊を作ろうか」と言い出すと、「やったね。来週楽しみにしてるけん」と喜んでいます。信じて疑わないこのあどけない中学生たちが、無理だ、できないと頭から思っている神父の心を動かしたわけです。

この話は続きがありまして、「ところで、お前たちは日曜日にちゃんと来るわけ?」と聞き直しましたら、「あっ、そうかぁ。それがあるよねぇ」と、何とも頼りないことを言い出したわけです。とっさに、彼女たちも切り返しました。「じゃあこうしよう。クリスマス聖歌隊だ」。もうすっかり、子供たちのペースに乗せられっぱなしです。私は、この企画が成功したら、復活祭にも生かしてみたいと思っております。

たかだか、中田神父一人を動かしても、皆さんはまだ信仰が大きなものを動かすと、本心から納得できないかもしれません。じつは本物の信仰は、最終的に神様をも動かしてしまうのです。

私たちは祈りの中で、神に何かをお願いし、何かを感謝したりします。神はそれに答えて、いろいろな形で私たちに答えてくださるわけですが、この一連の流れは、まぎれもなく本物の信仰が、神様の心を動かしていることに他ならないのです。神は確かに私たちの願いに心を動かされているのです。

要は、本物の信仰をもって、物事に当たっているかどうかです。では本物の信仰はどのようにして見分けることができるのでしょうか。私は、その人が信じて疑わない、絶対に引き下がらないとき、そこには本物の信仰が宿っていると思います。誰も動くとは思っていないこの大きなヤマを、いや私は神に祈り続け、絶対に動かすことができる、私はそう信じて疑わないというのであれば、そこには本物の信仰があると思います。

この人の協力が、どうしてもこの活動には必要だ。なのに、誰も声をかけることができないとしましょう。私たちの声では動かないとしても、神様の声を聞くなら、いかなる人でも心を動かすはずです。わたしの中に、小さくても本物の信仰を抱いて、神が動かして下さるとの思いで働きかけるなら、どんなものでも動くのです。私が動かすと言うよりも、わたしの信仰に答えて神が動かして下さるのです。神に動かせないものはありえないからです。

現代、少々のものは人の力で動くのです。それでも、どうしても動かないものにぶつかったとき、その時は信仰の出番です。私がその場面に立たされているなら、今日から、本物の信仰を願って下さい。信じて疑わない自分になったとき、神は私を通して働かれ、動かないものを必ず動かし、証を立てて下さることでしょう。