主日の福音 1998,09,27
年間第二十六主日(Lk 16:19-31)
私たちの日常生活では、頭では理解しているつもりでも体がどうしても受けつけないということが時折あります。私事になりますが、一般にヨーグルトはおいしいのだそうですが、私はどうしてもヨーグルトを食べることができません。デザートに混ぜたり、いろんな形でおいしくいただくのを見て、「よくあんなものを食べるよなぁ」と思うばかりです。
「だまされたつもりで食べてみて下さい。本当においしいですよ」とか、「このヨーグルトはほかと違って酸っぱくないですから、きっと神父様でも食べられると思います」などと、いろいろ言うって私に勧めてくれますが、私はどうしてもだまされるつもりになれないのです。これが、体が受け付けないということなのでしょう。
私は高所恐怖症の気もあります。電力会社の人が電柱に上って作業しているのに出くわすことがありますが、例えばその人の作業の様子を道路のはしから見上げている時に、挨拶のつもりで後ろから肩でもとんと叩かれるものなら、私はきっとその場で力が抜けて座り込むことでしょう。
遊園地の乗り物のでなにがいちばん怖いかというと観覧車が一番怖いのです。あんな静かな乗り物をまさかと思うかもしれませんが、いったん乗るとじわりじわりとつり上げられ、早く降りたくても飛び降りることもできない、あの怖さは高所恐怖症でない人にいくら説明してもわからないのです。高いところはどうしても体が受け付けないわけです。
今日の福音の中で私は同じようなことを拾ってみました。ひとつは、人は地上で行ったわざに応じて報いを受けるということですが、福音書に登場する金持ちに似て、私たちはしばしば頭では分かっていても、心底分かってはいないのです。もう一点は神の計画や望みは、今実際にかかわりを持っている今の教会の仕組みを通して与えられているということです。これまた頭では十分わかっているつもりなのですが、いよいよになると自分に都合のいいようにしか考えないのです。
もう少し福音書を追いかけてみましょう。アブラハムの言葉が、私たちに大切なことを教えてくれます。「子よ、思いだしてみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今はここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」。
明らかに金持ちは地上での生活の間、十分すぎるくらい恵まれていました。もし恵みが神からのもので、神に感謝することを忘れていなければ、きっとラザロに気が付いたことでしょう。ラザロとは、目の前にいるこの出来物だらけの人だけではないと思います。自分はあふれんばかりに満たされているが、もしかしたら恵まれていない人もきっといるのだろう。そんな人のために何かできないだろうか、そうした考えも浮かんできたのではないでしょうか。
けれども彼は生涯かけても恵みが神からのものであることに気づきませんでした。アブラハムの懐に迎え入れられたラザロはその日その日をやっとの思いで生きるだけしか与えられませんでした。そのことで彼は、「今日も生きられた。神が望むなら明日も生きながらえるだろう」そのような毎日を過ごす知恵を身につけたのです。神に感謝するラザロと、最後まで恵みを自分のためだけに使い続けたものとの開きは、埋められないほど大きかったのです。
アブラハムはこうも話しています。「私たちとお前たちとのあいだには大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこから私たちの方に越えてくることもできない」。神に感謝することを知っていたラザロと、一生かかっても恵みを神に感謝しなかった者との間には決定的な開きがあったのです。乗り越えることができないほどだったのです。やはりどうしても、天の国で報いを受けるような生活の仕方を一人ひとりが見つけなければいけないのです。
「私にはどんなお世話ができるだろうか。祈りを捧げることか、見える援助をすることか」。こればかりは、お一人お一人自分なりの道を見つけなければならないのです。
もう一つの点についても少し考えてみましょう。福音書の中の金持ちは兄弟たちのことを心配しました。あっと驚くこんなことが起これば、兄弟たちは心を入れ替えるだろう、そう思ってアブラハムにすがるのですが、結局はそうした考えも自分たちに都合のいいような考えに他なりません。
この人だったら言うことを聞いてあげよう、こういう条件なら協力しよう。でも、今のままでは私はてこでも動かない。もしかしたらこういう人は条件がそろえば本当に心を入れ替え、喜んで協力するのかもしれませんが、ありのままを受け入れるという気はありません。あっと驚くようなことなどをそうそう起こらないのです。へたをすると絵に描いた餅を眺め続けて、終わりが来るかもしれません。
むしろ、かわりばえのしないようなごくごく日常の生活、あるいは決まり切ったもののようにみえる日々の信心業の中で、神は私たちを救おうとしておられるのです。私に求められているわざも、今のこの生活、今私が置かれている状況でまずは探し求めなければならないのです。
頭では分かっているんです。けれども、こればかりは自分でもがいてみて、見つけ出さないといけないものではないでしょうか。
今日の福音は私たちに、一回きりの人生をしっかり目を開いて見据え、今の生活の中から救いの道をを捜し求める知恵と勇気を願うよう勧めているのです。もしかしたらある神父様が、本当に分かりやすく道を教えてくれるかもしれません。けれどもいくら教えてもらっても、実行するのは私なのです。こればかりは自分で勝ち取らないといけないものなのです。