主日の福音 1998,09,20
年間第二十五主日(Lk 16:1-13)
人間、自分がこういったことはできないんだとはっきり悟るとき、ものすごく悲しい思いをしたりします。先日魚釣りから帰るときに思ったことですが、手は二つしかないのに、手の中には今すべきことを四つも五つも握って、どれ一つ満足に果たせなくて、自分で苛立ったということがありました。

皆さん聞けば非常に滑稽に思うかもしれませんが、片手にバイクの鍵をもって、釣り上げた魚の網を握って竿を持ち、もう一方の手には道具箱とエサを入れて汚した小箱をもって、玄関のドアの前に立ったわけです。そうして閉まっているドアを、そのまま器用に開けようとしたとたん、釣り竿を落としそうになったのでそっちの手は胸にしっかりつけて、反対の手でドアを開けようとしたら、バイクの鍵を落としてしまいました。「あー、ちくしょう!」と思ったのですが、同時に「あれもこれもできるわけがなかろうが」と、自分で自分に腹が立ちました。

間瀬教会に行くときも同じで、片手にミサの祭服、片手に葡萄酒を入れるカリスの木箱、両手に抱えているのにできたてほやほやの説教を「これでいいかなぁ」と思いながら目を通しつつドアの前に立つと、またもやドアを開けることができません。「シスター、ドアば開けて」。何でこんなにあれもこれも手に握るのかねと、シスターにお願いする声もついとげとげしくなります。

今日の福音ですが、わたしのささいな日常生活に、ぐさっと釘を差すようです。「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」基本的に、人間は一つのことをし終えてから、次のことに移るものです。ですから、ごく小さなことでも、順々にこなしていく、忠実にこなしていかないと、結局はうまくいかないのです。あれもこれもしながらドアが開かないと怒って、最後にはドアを蹴ったくるなどは以ての外で、何でもいっぺんにひっくるめてやってはいけないのです。

皆さんは、そんなせっかちな人はいないかもしれませんが、もし同じようなことを経験しているようでしたら、少し考えてみたらいかがでしょうか。自分の生活に何かうまく行かないことがあって、それはいくつかのことが複雑に絡んで起こっているとしましょう。それを、いっぺんに解決してしまおうとばたばたもがくことはないでしょうか。あるいは、いっぺんに解決するまで、結局どれもこれも棚上げすることはないでしょうか。

そんなときも、やっぱりイエス様の仰る通り、一つずつ、できる小さなことを順を追って、忠実にこなすしかないのです。それが、ひいては大きな結果を成し遂げることになるのではないでしょうか。

そのさい、守るべきことが一つあります。それは、福音のいちばん最後の言葉、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」ということです。悪いことも数々しながら、良い人になろうというのは虫の良い話で、一つずつすべきことを果たして自分を造り上げるに当たって、やはり一人の主人、神の喜ぶほうを選んでいくということです。この基本が守られていれば、あれこれ複雑に絡み合っている原因を解きほぐすときも、順番にこだわらず、できることから、神様の前に誠実と思える方法でこなしていけば良いと思います。

イエス様は、あれをしながらこれもいっしょにとは言いません。きっぱりと、「一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」と仰います。この一週間、私は悪に未練を感じつつ善を望むのではなく、正々堂々、善に向かってまっしぐらに進む努力をしてみましょう。じつはこうした努力が、イエス様のみ言葉を本当の意味で理解する近道なのです。