主日の福音 1998,09,13
年間第二十四主日(Lk 15:1-32)
今日朗読された箇所から、「放蕩息子のたとえ」を取り上げたいと思います。皆さんも、話の筋はよく知っておられるかと思いますが、私は、今回改めて読み返して、また違った感想を持ちました。

福音書は本当に内容豊かで、長年読み続けている人も、その度に新しい発見をするものですが、今回私が気がついたのは、弟の人柄についてです。財産分与を願い、それをすべてお金に換えて旅立つ弟は、まだ年若い少年ではなくて、ある程度の年齢になった青年だったと考えて良いと思います。自分の行動に責任を持てる「一人前の大人」だったわけです。

もちろん、非の打ち所のない人物ではありませんでした。ありったけのものを使い果たして、食べるにも困り果てるまでになったわけですから、欠点だらけの、不完全な人間の代表でもあったわけです。

そう言う意味では、兄の勤勉・忠実さの前には、弟は足元にも及ばないと言うことになるでしょう。けれども、勤勉・忠実な兄でも身につけていなかった点があったのではないでしょうか。これが、今日私の目についた点です。

落ちぶれた弟が、父の家での生活を振り返る場面に注目しましょう。弟は、大勢の雇い人が、有り余るほどのパンをもらっていたことを思い出しました。おそらく、自分自身はそれ以上の食事をしていたのでしょうが、身内の暮らしぶりではなく、雇い人の暮らしぶりを知っていたのです。

立場上、大勢の人を雇っている人を思い浮かべてみてください。はたしてその雇い主は、雇っている人々が普段どんな食事をしているか、そこまで気に留めるものでしょうか。けれどもこの弟は、言ってみれば雇い人たちのいちばん個人的なことを、はっきり把握していたのです。兄は、「雇い人はあくまで雇い人」という態度で接していたようで、弟のような視野の広さは伺うことができません。

そこから振り返って、弟は父の偉大さを知りました。いっしょに暮らしていた父親は、雇い人がどんな食事をすることになるか、そこまで心を砕いていたのです。そして離れてみて、父のそうした心配りに気づいたのです。父親のことを知れば知るほど、ますます自分との距離に気づいていくのです。

私たちはどうでしょうか。国民性なのかもしれませんが、誰かと関わりを持つときに、あまり深く立ち入らないようにしようという傾きがあるのではないでしょうか。もちろん、個人的なことをのぞき見る必要はありませんが、もう少し欲張ってもいいのではないか、と思いたくなるときが私はあるのです。

教会のことに絞って考えてみましょう。教会活動の中で、あまり首を突っ込むと仕事が増えるから、そう言って、遠巻きに教会活動に関わっていることがないでしょうか。ここ三、四ヶ月ミサを捧げて感じることをあげると、もっとたくさんの人が交代で引き受けてくれたら、ミサが活気づくのになぁ、と思うことがあります。

聖書の朗読、共同祈願、パンと葡萄酒の奉納とか、お賽銭を集めて回ったりとか、ちょっと見るとだいたい同じ人で回っていると思うのは、気のせいでしょうか。それとも、ミサは拝むもので、あまり深く立ち入るものではないということでしょうか。

私は、ミサについては、「もっとよく知れば、もっとよくあずかれる」と思っています。聖書朗読を何度か引き受けてみれば、読む人の苦労も分かるし、誰かが読んでくれているのを他人事のように聞くこともなくなるでしょう。また、パンと葡萄酒を運ぶ仕事を引き受ければ、このパンと葡萄酒を司祭に手渡さなければ、ミサの後半部分は始まらないということがよく分かってくるのです。

同じことは私たちが信じる神様についても言えることで、「もっとよく知れば、もっとよく愛せる」のではないでしょうか。

放蕩の限りをつくした弟は、以前よりももっと深く父の優しさを知ったので、より深く父を愛するようになりました。イエス様はほかの箇所で、「多く赦された人は、多く愛するものだ」とも言っています(ルカ7:47参照)。生活全体を神様に向けるのに、私たちはもっとよく知り、近づいても良いのではないでしょうか。

最後に、最近私がものすごく喜んでいることを一つ紹介しておきます。今日のミサは、守るべき主日として当然与るべきミサですが、この前の木曜日に、子供たちのけいこのあとで、平日のミサに来なさいと再度念を押しましたら、ちゃーんと呼びかけに応じて子供が平日のミサに来るようになりました。「当てにはしてませんが」とうそぶいてはみましたが、本当はすごく当てにしていたんです。

嬉しかったですね。ここ何ヶ月かで、私にとっていちばんの収穫でした。こうしてぼちぼちでも子供が平日のミサに来れば、おそらく成人して家庭をもって、いつか彼らが平日のミサに来るようになると思います。毎日ミサに与る子供は、それだけ多く神様を愛する子供になるのです。

もちろん、道のりは険しいです。「普通の日もミサのあると?神父様は普通の日もミサばしよると?」こんなことを子供に言わせないでほしいです。こんなことを無邪気に尋ねる子供を、頭ごなしに叱ることができるでしょうか。「悪いのはお前じゃない」と、言いたくなります。

もっと子供たちがミサに近づくために、皆さんに知恵を授けます。カレンダーのお休みの日に、家族でミサに与る習慣をつけてください。働いている人も休みになっている人が多いのではないですか?そういうときは、「今日はみんなでミサに行く日」と、カレンダーに書いてください。両親が信仰の模範を見せるまたとないチャンスです。これこそ、家族が神様を愛している証です。

「そこそこに神様を愛する家族」から、「もっとよく知り、もっとよく愛する」家族に変わりましょう。神は、求める人には溢れるほど与えてくださるのです。