主日の福音 1998,09,06
年間第二十三主日(Lk 14:25-33)
今日の福音書の中でルカは、繰り返しの言葉や言い回しを使って、イエス様の強調点をくっきりと描こうとしています。後で同じ箇所を読み返してほしいのですが、「わたしの弟子」という言葉が三回出てきます。繰り返し同じ言葉を使うことで、「わたしの弟子になるにはどんなことが必要か」ということを考えさせようとしているのです。

同じ言い回しも出てきます。「…しないなら(でなければ)」「わたしの弟子ではありえない」。この言い回しが三度出てくるのは、イエス様の弟子となるための条件も、はっきりしているということです。

そこで問題になっている三つの箇所を並べてみましょう。「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」「自分の十字架を背負ってついてくる者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」

「わたしの弟子ではありえない」はまったく同じです。そうすると、「…でなければ」という条件の部分も、じつは同じことを意味するのではないか、という推理を立てることができます。「父や母、兄弟姉妹を憎む」ことと「十字架を背負う」こと、さらに「自分の持ち物を一切捨てる」ということは、何かしら共通点があるのではないでしょうか。

私は、これらの条件は、「十字架を背負う」ということで一つにくくることができると思います。「父や母、兄弟姉妹を憎む」とは、嫌いだから憎しみをもって接するというのではありません。家族関係や人間関係で、ときどき嫌だなぁと思うことがあっても、それを十字架として正面から受けとめるということです。やさしくしてあげたいと思うけれども、実際には冷たくしてしまう自分の弱さを、十字架として自覚することです。こういう意味で、「父や母、兄弟姉妹を憎む」ということは、「十字架を背負う」ことと結びついていきます。

また、「自分の持ち物を一切捨てる」ということも、詰まるところ「十字架を背負う」ことです。自分のしたいことや、自分の都合を最優先する生活、自分中心の生活に別れを告げて、神と人とに心を開く努力は、「十字架を背負うこと」そのものです。面倒がったり、好き嫌いの感情に流されて不親切になる自分に死ぬことは、立派な「十字架を背負う」道ではないでしょうか。

ここで、一つの答えが見えてきます。大勢の群衆がついてくる中で、イエス様が振り向いて呼びかけた「弟子になるための条件」とは、「自分の十字架を背負ってついてくる」こと、これだったのです。「大勢の群衆」を前にして言われたのですから、イエス様は私たち一人ひとりにも、同じように呼びかけておられるのです。「自分の十字架を背負って、わたしについてきなさい」。

私は非常に欲張りなので、もう一歩話を進めて、皆さんと考えたいと思っています。イエス様の弟子になるために、一人ひとり十字架を背負ってついてくることは分かりましたが、自分に与えられた十字架が、いったいどこから来るものなのか、ということも知っておいてほしいと思います。いったい、どこから来るのでしょうか。

答えを先に言うと、十字架は、イエス様から、それも、イエス様だけがお与えになる、ということです。何か、自分の身の回りにうまくいかない人がいたとして、「あー、この人はやりにくいなぁ、自分にとって十字架だなぁ」と思っているとしましょう。そのとき、目の前にいるこの人が自分に十字架を与えていると考えがちですが、私は違うと思います。十字架は、いっしょに考えたように、弟子になるための条件です。ですから、自分にとって十字架になっているこの人が、私を弟子にしてくれるのではなくて、イエス様が私を弟子に変えていきます。つまり、どんな場面でも、十字架を与えてくださるのは、イエス様なのです。

自分のしたいことを犠牲にしてまで、人のために尽くしたくない。そう思っているときがあるとしましょう。そこで、思い切って自分の気持ちに打ち勝って、人に尽くしたとします。立派に十字架を背負ったわけですが、自分で十字架を与えたのでしょうか。決してそうではありません。ここでも十字架を与えてくださるのは神なのです。私が十字架を用意して、弟子になれるように自分を教育したのではないのです。

こうしてみると、イエス様が仰った十字架は、また一つ輝きを増してきます。つまり、私たちが日々背負っていく十字架は、単に苦しみとか重荷ではなく、イエス様から日々与えられる恵みであるということです。人が、私に十字架を強要するのであれば、それは苦しみとか、重荷なのかもしれません。ですが、すべての十字架がイエス様から来るのであれば、それは例外なく恵みなのです。神は、人間に恵みを与えること以外に、私たちに何かをなさることはないからです。決してありえないことです。

今日、私たちに、弟子になるための条件を教えてくださった神に、ミサを通して感謝を捧げましょう。ささげものを通して感謝しましょう。十字架が、人間関係の中で生じてくる重荷ではなく、恵みであることにイエス様は目を開いてくださいました。自分中心に振る舞いがちな私を変えてくださる恵みであることを知りました。心から感謝の祈りを捧げましょう。

神が、この恵みの十字架を日々私に与え、キリストの弟子として歩み続けることができますように。アーメン。