主日の福音 1998,08,23
年間第二十一主日(Lk 13:22-30) 
みなさんのおかげで、充実した四日間の夏休みを過ごすことができました。去年夏休みを取っていなかったので、二年間郷里に帰っていないことになりますが、間をあけているうちに様子はぐっと変わっていました。私と同じ数世代の人が家を構え、両親の近くに新しい家族が根付き始めていましたし、覚えのない子供が早朝のミサの侍者をしていました。その子供に「主任神父様(下山神父様のことですが)、あれ誰?」と言われた時は、「やはり顔をつないでいないとよくないな」なんてことを少し感じた次第です。

今回の休暇でいちばん収穫になったのは新たに改築された土井ノ浦教会を見ることができたことです。この小教区は、おそらくこの太田尾小教区よりも個数的に少ないと思います。そういうなかでもほんとにすばらしい教会を建てることができるんだということをしっかり目に焼き付けできました。いずれはこの教会にも同じ課題を取り組む時期がやってくるのでしょう。

郷里はいいなぁ、そう思っていたのですが、休みから帰ってみると、また気持ちがかわりました。やはりどちらが落ち着くかというと実家の良さは十分考慮した上でも、私の住まいはこの大島ではないかなということを良く感じたわけです。というのは休みをとっている間は司祭館に一つの郵便物も来なかったのに、帰って来た途端にお帰りなさいと言わんばかりに郵便物がきちんと届いたこととか、帰った次の日に、連絡が何もしていなかった人たちが、二組別に何の連絡もしなかったにもかかわらずやってきまして、ホントに嬉しいなぁと思ったり、やはりこの大島にいる私を頼ってみんなが顔を出してくれるんだなぁということも感じたわけです。

ここに住んで、この教会の中で、教会の信者さんとともに歩いているんだ。そんなことを実感した夏休みになりました。本当にうれしいことでした。

みなさんからの差し入れ、また志をいただいて、大島の宣伝は四日間、十分すぎるくらいにしてきたつもりですです。郷里の人にとって、行った先で地元の神父様がかわいがられているということを知ることは、地元の人にとって何よりも嬉しいことなんです。

いよいよ子供たちの練習の成果を発揮する球技大会がやって来ます。男女混合の種目に出るのですが、よくよく聞くと男女混合のチームは四チームほどしか参加しないということで、へたをすれば優勝する可能性もあるなぁ、そう思ったら「もしや」という不安が頭をよぎりました。私は、練習中、「優勝したら三井グリーンランドでもどこでも連れていってやるぞ」とハッパをかけたものですから、今になって財布の心配をしております。ないとは思いますが、「もしや」ということがありますので、「加減しながら応援しようかなぁ」と思っております。

もちろん、子供たちは優勝ねらっていることでしょう。これは結果ですから、誰もそれを予測することはできませんが、それはそれとして、これまでの練習を通して、子供たちはたくさんの収穫を得たと思っています。

たとえばこの夏休みを、自分の好きなことだけして過ごしたとすれば、今年だけの収穫にしかなりませんが、早朝のミサとラジオ体操、それに週二回の練習を通して、教会学校の子供たちが力を合わせて一つの目標に向かっていくことを学んだはずです。

協力して目標をつかみ取ろうと努力することは、後できっと実を結びます。いつか、立派に社会に旅立ってから、みんなと協力して教会づくりをしていく準備になるからです。教育に多少の出費は絶対に必要なことですが、教育への投資は絶対に無駄になりませんので、そこのところは皆さんの理解と協力を本当に心からお願いしたいと思っております。

いつしか子供たちが「夏には球技大会の練習をして、優勝した、準優勝した」という思い出が残るとすれば、先のことを考えると子供たち、ひいては教会にとってのいい財産になると思います。本人たちはその時はわからなくても後になって積み上げたことが身にしみて分かるはずです。

こうした実りを、親と子の間で、また教会を引っ張っていく世代と次の世代との間でつかんでいくことは、教会運営にとって本当に大切な仕事だと思います。今日の福音の中で次のような箇所がありました。「御主人さま、開けてください」と言っても「お前たちがどこの者か知らない」というやりとりです。

実際には会食をしたり広場で教えを聞いたりしたのですが本当に後になって残るもの、後になって主人に記憶される、そういった努力を積まなければどんなにその時を自分は良かれと思って過ごしても、後になって失敗をするということです。そんなことを考えると私たちが後に残る努力をすることを学ぶ必要はいよいよ増してきます。そういう訓練を親子を通してあるいは教会の中でもいまの世代(たとえば役員)と次の世代(子供たち)を通して学ぶことができれば本当に素晴らしいと思います。

こうした「確かな歩み」は、本当に限られた環境、すばらしい選ばれた環境でないとできないことでしょうか。そうではないと思います。いろいろ不足や欠点はあっても、置かれた場所、いまの教会の歩みの中で、私は必ずできることだと思っています。創意工夫があれば、どんな生活の中でも、「あなたは立派に歩むべき道を歩いた」と、神から記憶してもらえる信仰の歩みはできるのです。今日のミサの中でそうしたことを思い出しながらミサを続けていくことにいたしましょう