主日の福音 1998,08,16
年間第二十主日(Lk 12:49-53)
つい先日、ヨゼフ会という修道会のシスター二人と、志願者の大学生に久しぶりに会いまして、特に大学生とは昨年の夏フィリピンであって以来でしたので、懐かしい話を交えながらひとときを過ごしました。大学生のほうはいいとして、ヨゼフ会のシスターの一人が、私を見るなり、「うわー、神父様、何でそんなに黒いんですか。よっぽど魚釣りに明け暮れているんじゃないんですか」と、現場を見たかのようなことを言ったものですから、私は反論しました。
「シスター、失礼かばい。確かに魚釣りにも行くけど、ほかにも日に焼ける理由はあっとばい。この前は病人回りに行って、一日中日に照られて、それも焼ける理由やかね。何でもかんでも魚釣りのせいにしたらいかんばい」と言ってやりました。
それでも、ここのところの成績は芳しくありません。御床島まで通っても、修道院にお裾分けするところまでは行きませんし、波止場で釣れば、子供たちに「うわー、ちいささー。こんなに小さか魚、どうやって釣ると?」と言われる始末です。釣れないのはほとんど私の腕のせいでしょうが、もうちょっと案内を買って出る方が増えてくだされば、小学生の連中の鼻をあかすこともできるはずです。どうでしょうか?
ほかにも、釣れないものがあります。それは人です。人間です。例を挙げればきりがありませんが、先日のお祝い日前の赦しの秘跡は、それぞれの教会で一時間座っておりましたが、途中で居眠りするかと思うほどでした。毎度毎度釣れるとは思っていませんが、それにしても釣れません。イエス様はペトロに、「わたしについて来なさい。人をすなどる漁師にしよう」と仰ったはずですが、あの約束はどうなったのでしょうか。
告解に来た信者さんは、十五分で猫の子一匹いなくなったのを見て、親切にこう言ってくださいました。「神父様もう終わりです」。私は意地でも座ってやると思って、電気はそのまましとかんねと言ったのですが、いかんせん誰も来ないのではいくら意地を張っても仕方ありません。しかたなく店を閉めることにしました。
だれもかれもお祝い日前の告解は済ませていて、そういうことで誰もいないと言うのなら、確かに魚はいないのです。けれども、私はとてもそうは思えません。数えたわけではありませんが、土曜日曜のミサに、ずらり告解人が並んでいたという記憶もありません。
意地の悪い神父はこう考えました。告解するほどの罪もないのだろう。黙想会の時に告解したから、次はまたの黙想会の時にするつもりなのだろうと。
平和ですね。告解人は数えるほどしかいないから、順番争いも起こりませんし、司祭も楽で結構なことです。年にいっぺんの黙想会で、洗いざらい告白するのかもしれませんが、とりあえず公教会の六つの掟には触れませんし、神様とも年にいっぺんの年賀状程度の挨拶を交わして、いちおう連絡を取っていることにするのでしょう。
あるいはこういうことでしょうか。晩の七時は、どうにも中途半端な時間で、行くに行けないのでしょうか。釣りも上げ潮下げ潮、潮の加減と言いますから、時間が悪かったのかもしれません。それと、もう少し前からお知らせをしておけば、もう少し成果が上がったかもしれません。
いやいや、エサが悪かったのではないか。と言っても、どうすればいいのでしょうか。私が教えてもらいたいくらいです。
まあこれくらいこぼしておくと、次の時にはどうかなるでしょう。次は、クリスマス前に告解の時間をとりますが、いくら何でも今回のようなさんざんな結果にはならないと信じています。どうぞ、私の意図をくみ取って、生活の折々に秘跡を十分に取り入れる工夫をしてください。