主日の福音 1998,08,15
聖母の被昇天(Lk 1:39-56) 
聖母の被昇天おめでとうございます。今日は、被昇天のお祝いが、どれだけ大切な意味があるかということと、この意義深いお祝いを、どう次の世代に伝えていくかについて、じっくり考えてみましょう。

被昇天のすばらしさは、はっきりと分かっていなくても、誰もが漠然とは理解しています。マリア様が、霊魂も肉体も共に天に上げられたということです。マリア様の生き方がすばらしかったので、神様はそのまま、マリア様を天の国に呼んでくださいました。

ここまでは、誰でも考えそうなものですが、その先を私はみなさんに期待しています。マリア様がすばらしいお方なのは分かりましたし、それはそれで結構なのですが、私たちとどうつながってくるのでしょうか。実は、マリア様のすばらしさは、私たちを動かし、新しい自分に変えてくださるのですが、この点について考えてみたでしょうか。

私たちが知っていることを、すべて出し尽くしてみましょう。マリア様のご両親は、ヨアキムとアンナです。聖霊によって身ごもったイエス様と違い、両親ともまことの人でした。マリア様はまた、適齢期を迎えた女性の大半がそうするように、ヨゼフ様と婚約していました。ですから、マリア様は完全にまことの人として、私たちと同じ生活を生きて行かれたのです。

イエス様も天に昇って行かれましたが、イエス様はまことの神、父なる神のひとり子として、天に昇って行かれるのはごく自然なことです。けれども、まことの人であったマリア様、神に造られたマリア様が天に上げられたことは、イエス様と違ったすばらしさがあるのです。造られた生き物、被造物である人間が、天に呼ばれる栄誉を受けることができるということは、どんなにありがたいことでしょうか。

考えてみてください。神様がおられる所に、造られた人間が同席するということは、冷静に考えて当たり前のことでしょうか。決して当たり前のことではありません。考えられないことです。それなのに、神様は大きな憐れみと計らいによって、造られた人間を、御自分の側に置いてくださるのです。

さらに、父なる神様は被昇天のお祝いを飾ってくださいます。イエス様が復活し、天に昇られたことで、私たちは救いへの希望をいただきました。聖母の被昇天は、救いへの希望を確実にしてくださいました。造られた方であるマリア様が、天に昇ったのですから、私たちも同じ希望を確かに持つことができるわけです。聖母の被昇天は、私たちの救いへの希望が、決して裏切られることがないという、何よりの証拠なのです。

ここまでくると、マリア様のお祝いは、そのまま私たち一人ひとりのお祝いに結びつけることができるようになります。私たちは、例外なく神に造られたものです。だから、まことの人であるマリア様に示された慈しみを、私たちのものとして喜ぶのです。

私たちは、誰もが神に救っていただきたいと願っています。だから、救いへの希望を確実にしてくださった被昇天のお祝いは、旅路にある私たちの希望そのものなのです。マリア様のお祝いは、マリア様だけにとどまらず、私たちと切っても切れない関わりがあるのです。もっと言えば、いちばん私たちに関わりのあるお祝いなのです。

マリア様をたたえるとき、私たちの救いの道筋は明らかになりますが、そこで安心してはいけません。救いは、すべての時代、すべての人にまで届かなければならないのです。私たちの世代はよくても、私たちの子供、孫たちは果たしてマリア様を通して救いへの希望をつなぐことができるのでしょうか。

きっと、昔のお祝いの仕方を思い出すことでしょう。「自分たちが子供の時代は、8月15日にはふくれ饅頭をしてもらって、ふくれ饅頭のお祝い日と言っていたものだ」と。では、次の子供たち、孫たちの世代に、ふくれ饅頭で今日のお祝いを語り継いでいくことができるのでしょうか。たとえば、ふくれ饅頭よりもアイスのほうがおいしいと言われて、それでも「ふくれ饅頭のお祝い日」と言い張るのでしょうか。私は無茶だと思います。

もっとじっくり考えてみてください。「ふくれ饅頭のお祝い日」と言っていたのは、どうしてなのでしょうか。今日この日には必ず、どんなに忙しくても用意していたからではないでしょうか。毎年必ず、あのごちそうを準備したからではないでしょうか。

だったら、次の世代のために、考えなければなりません。「あのごちそう」を、毎年必ず、今日この日に準備してください。今なら間に合います。どんなごちそうにするかは構いませんが、「今日の8月15日はこのごちそう」と決め打ちして、どんなに忙しくても、どんな事情があっても、子供と一緒に食事をして祝ってください。そうすればきっと、「あー、8月15日が来たなー、いつもそうだったけど、あのごちそうが出たよなー」という伝統を引き継ぐことができるはずです。

私(中田神父)にとっては、今でも8月15日は「ふくれ饅頭のお祝い日」です。けれども、今の小学生がそうであるとは限りません。ごちそうは違っても、伝統は引き継ぐことができます。「信仰は口から入る」と言い切った神父様がいらっしゃいましたが、私もそれを信じて疑いません。ぜひ、「被昇天の日の一品」というものを編み出してください。

聖母被昇天のお祝いが、ただ単に教会のお祝いのうちの一つに成り下がらないように、また、今日のこの日を次の世代に確実に伝える知恵を、続けてミサの中で願ってまいりましょう。