主日の福音 1998,08,09
年間第十九主日(Lk 12:32-48)
今日は日曜日であると同時に、8月9日、長崎に原子爆弾が落とされた日でもあります。長崎市内では、平和を求める行進が、平和公園から浦上天主堂へ向けておこなわれ、祈りのうちに一日が過ぎていきます。

この御ミサの始めに発表したミサの意向の中に、「原爆で亡くなった死者のため」というものがありました。浦上教会時代は、同じ意向の御ミサが、数え切れないほどあがったわけですが、今こうして浦上教会を離れてみて、8月9日に捧げられるミサの重大さが、じわじわと感じられるようになりました。

広島、長崎の原爆投下の日に合わせるように、いろんな形で平和を求める行事が催されます。それは、亡くなった方の追悼を含めて、やむにやまれぬ気持ちで行われているものですが、一つひとつの行いに、確信があるかと言われると、どれほどの確信があるのか分かりません。合同慰霊祭、平和行進、被爆体験の継承と、ありとあらゆる形で今に至っているのですが、確信を持って、この行いはあの苦しみを味わった故人の慰めになっている、平和を創り上げる確かな礎となっている。そう確信を持てるものが、どれだけあるのでしょうか。

振り返ってみると、原爆で亡くなった方のためにミサを捧げることは、故人の魂のお世話を、全知・全能の神に委ねることですから、これほど確実な行いはありません。平和を願う一方で、同じ人間が争い合い、同じだけの武器を用意して対抗する姿は、人間の力で平和をもたらすことがほとんど不可能に近いことを証明しているようなものです。むしろ、故人の魂の平安、この世界の平和を、ミサを通して願う姿こそ、確信を持って積み上げることのできる行いのように思えてなりません。

ですから、私がまだ司祭になりたてのころ、8月9日にミサを捧げていたときと今を比べると、心構えがまるで違うわけです。ミサを通して神が平和の主であることを思い起こし、真の平和を神が一日も早く実現してくださるように祈っている。司祭はその取り次ぎをミサの中でしている。今やっと、そう感じられるようになったわけです。悲しいかな、当時はそこまで考えが及びませんでした。

今日の福音のはじめのほうに、次のような一節がありました。「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」。原爆で愛する家族を失った方々は、本来ならその家族と今も地上で生きて出会えるはずです。失ってみて、ほかの何ものにも代えがたい宝であったことを感じていることと思います。

地上では、その富を失ったことになりますが、信仰をしっかり保って考えると、地上で失った富も、天の国に今生き生きと保たれているのです。人間が作った悲惨は、富を地上に積むことを奪ってしまいましたが、かわりに、失った富はよりすばらしい形で天に保たれているのです。神の手の中にあるのです。

信仰は、こうした確信をその人に保たせます。ですから、富がいま天にある以上、心もまた天に向かうのは当然なことです。天にある富のためにできる最高のお世話は、ほかでもないミサの生け贄なのです。

今年も、浦上教会では、原爆で亡くなった犠牲者のために、数え切れないミサが捧げられることでしょう。私たちも、今日の8月9日を通して、どんな平和行事にも負けない尊い業、ミサ聖祭を捧げる尊い業を与えられていることを思い起こし、感謝いたしましょう。そして私たちも、今日のミサを通して、神が平和を与えてくださると信じ、続けて祈っていきましょう。